english

ここから本文エリア

  • 閲覧上のご注意

長崎の声

女性 直接被爆
被爆時13歳 12809

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 昭和20年8月9日11時ころですか、爆心地より近い油木町の防空壕の中で被爆を受けま した。
 発熱、下痢症状であったが、両親及び兄弟の死亡をしらせて頂き父母兄弟の死亡場所を 知り、遺骨を集めに。病をおして日々の日課になっていた。1ヶ月を過ぎた頃、時津小学 校へ避難したが、その時救護作業中の兵隊さんに色々と助けていただきました。

 一瞬の光、一瞬の形相、広大な被災地、あの思いは二度と思い浮かべたくありません。 兵隊さんがしお水でせなかをなでて上げてやりなさいといってくれましたが、(あなたが) しぬか兄さんがしぬかわかりませんよ、しお水てそれなんですか。その時の兵隊さんの前もきまもありませんでした。今かんしゃしております。まだ若い人でしたおれいをいいたいけれどわかりません。それが心のこりです。
 ゴエモン釜3個分の骨を集めました。平和公園納骨堂におさめて有ります。
(2005年)

 8月9日の事です。母が広島に新型爆だんが落ちた事を私達に教えてくれました。早く油木に行くようにとの事です。駒場町は半分は民家です。半分は工場でした。突然米軍が来てお骨がうまっているのに飛行場を作りました。又競輪場を作りましたが長つづきは無かったです。9月には必ずケガ人が出たそうです。(その一角に何か記念碑になるものを作っていただければ幸いです。希望します)今は野球場が出来ましたがお骨の上です。皆さんご存じでしょうか?

 私は大阪にいてもラジオで駒場町の事はすぐにわかります。野球場にするとは思ってはいませんでした。あの場所に入る時は手を合わせていただければありがたいと思います。何かある時は皆さんが“ケガ”の無い様に願っています。1人の人間です。今も其の時、助けていただいた軍医さんの事を心の中で探しています。当時は若い軍医さんでしたがもうお年でしょうね!私も77才になりました。当時私は13才でした。兄は(一良)も53才で亡くなりました。
(2010年追記)