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長崎の声

男性 入市被爆(出雲町)
被爆時8歳 5654

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
  父、長崎の工場にて勤務中、直爆を受ける。兄(長男)の友人、知人、町内の人々の お力添えで無事保護されました。半身以上と云える位、大火傷で顔は煤で真黒になって衣類(作業服)も身体から離れません。離そうとしても痛い、痛いと云っていました。皮膚が爛れて常時水がほしいほしい云っていました。

 火傷には道の尾の温泉の温泉が良いとか、お茶が良いとかで、治療はどうしたらよいかと母はどうすることも出来ず、ただ父の側に居るだけで……。小さい子供の僕になにも出来ま せん。何もしてやれなかった事が、60年たった今も出来なかったのが悔しい。今の心の中、頭の中から消えません。ただ茫然と皆父の周りに居るだけです。

 8月11日―町内ではいろいろな情報や、いろいろな噂も飛び、大変な様子でした。近い内にアメリカ軍が進駐してくる情報も。父も重傷で介抱も大変なので母(37才)の実家に避難するようになり、親戚の人、町内の人、お世話で父を大八車に乗せ村に向かいま した。母は妹(2才)を背負い、長男兄16才、次兄13才、本人8才、弟5才家族皆で 小さい子供(本人、弟)でよく歩いたものだと。今思えば考えられません。母親の大苦労は 言葉では云い表すことは出来ないと思います。私自身、親となった今、親の気持ちが分か ってきました。道中(電車停留所の曲りの辺)で馬の死体が真黒で腹が 膨れて横になっていた。何の動物か又この無残な姿で。あとで聞いてわかりました。

 長崎駅付近からこの浜口町、この先(道の駅方面)何もなくただ燃え尽きて一帯は焼け野 原で何もありません。少し行くと爆心地付近の石垣のある住宅で人々が真黒で(性別不明) 石垣に立った状態で死んでいた。(大人の人と思う)今でも思い出され忘れようにも忘れよ うがありません。あの時の事……。夕方の頃途中母から父の死亡を知らされた。(場所、 時間は忘却)(子供の時だから)その大八車で引返し父の勤め先である工場で社の方々のお世話で父の火葬を行っていただきました。時は昭和20年8月11日亡父45才。

 次世代へ訴えたいこと知らせたいこと……項目がありますが余白がないので次の機会で も。
(2005年)

  次世代へ訴えたいことや知らせたいことなど……
私には被爆死者を長崎・広島に与えた米国を許す寛容はない。父を奪い、多くの人の命を虫けらのように焼き殺した原爆。いまだにこの胸に残っております。又65年前の8月9日、父の命日8月11日がやって来ます。今のこの平和をこの先も絶やさないで守り続けてほしい。戦争は人々の人生を狂わさせます。

 黒焦げの遺体が焼け跡のあちこち無数に転がっている所、皆様見た事ありますか。男女の区別が出来ません。子供でしょう、小さな黒焦げの遺体をあちこちあるのを。8才の子供である僕には非常に苦痛で今でも頭の中から消えません。ある新聞、書物の記事によれば、一発の原爆で数万、十数万の人が焼け死ぬとの事です。爆風で体がバラ々になり、放射能の影響で、怪我も火傷もない人が死んでいくとの事で、自分も体にちょっと異常あれば今日でも原爆による病気でないかと、いつも身体に不安を感じる。
 私は訴えます。被爆者の声を沢山きいて下さい。原爆資料館に触れる機会を多く作って下さい。
(2010年追記)