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長崎の声

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伊藤雅浩さん 入市被爆
被爆時10歳 / 東京都八王子市8362

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 今年八王子原爆被爆者の会(八六九会)で体験文集を出版することになり、今、手もとに そのために私が書いた原稿がありますので同封します。

     あの日見たこと
   10歳の体験
 昭和20年8月9日。私は長崎県北高来郡田結村(後に飯盛村、飯盛町、現諫早市)大字大門字大門に住んでいました。
 田結村国民学校5年生。その日は夏休みです。
 私が生まれ育ったところは長崎市で、昭和20年の春から疎開者として田結村で母、「ばあち ゃん」と呼んでいた母の伯母、二人の弟と一緒に暮らしていました。住んでいたところは 千々石湾が目の前に広がる海岸で、うちの前に道路が通り、その先の石垣の間の道を下 っていくと砂浜があって、砂浜に波が打ち寄せています。砂浜の右手に防波堤が延びてお り、この防波堤と砂浜のあいだでわたしたちはいつも泳いでいました。透明なきれいな 海でした。

 8月9日のお昼ちょっと前に、縁側で母は客と話しており、私はその近くで本を読んでお り、国民学校1年生の弟は海で遊んでました。その弟は海で遊んでいました。その弟が真 っ裸の姿で、手に自分のパンツを持って走ってうちへ帰ってきました。
 「あっちのほうで何かピカーて光ったバイ」と言い、母が「ふうん、なんやろねえ。。」 と答えた途端、「ドーン」と物凄い衝撃音、震動が襲ってきました。日頃、爆撃などのそんな衝撃に備えて訓練されていた通り、反射的に地面に伏し、目と耳を手で覆いました。

 衝撃は2、3秒だったでしょうか。うちは大丈夫でしたが、すぐ近くの郵便局のガラスが 割れました。なにが起こったのか分かりません。大人は「爆弾じゃろう」「1トンじゃきか ん。10トンはあるバイ」などと話していました。長崎市から田結村までは普通は4里半 (18キロ)と言っており、直線距離は10キロ弱です。「ピカ」から「ドン」までの時間 は30秒くらいあった計算になります。私の弟が見た光とその30秒後に襲ってきた衝撃 音振動を結びつけて考えたのは後の事です。

  西の空には雲がもくもくと盛り上がってきました。キノコ雲です。真っ白の中にピンク色 の光が走り、私は美しいと思って見とれていました。しかし、雲はあっという間に全天を 覆い、太陽はその雲の後ろに小さく赤く頼りなく見えました。ばあちゃんは「お天道さま の落ちて来る」と怯え、防波堤に沿って作られていた暗渠がいざという時の防空壕の代わ りということになっていたのですが、その暗渠へ逃げ込みました。
 しばらくすると灰が降ってきました。灰と一緒にいろいろな紙も落ちてきました。米穀 通帳もありました。いろんな紙に「長崎市駒場町」「松山町」「城山町」などの地名があり、それで長崎市がやられたのだと分かりました。
 私はその時24インチの自転車を持っていました。当時そんな自転車を持っている子供 はまずいません。その自転車でそれまで私は長崎市まで何回も往復していました。母は私 にすぐに長崎へ行けと命じました。

 長崎には女学校1年生で、東小島に寄留していた姉がいます。私の父はこの時出征して 中国にいましたが、出征前に工場を駒場町に作りました。その工場の近くに谷口という親戚 があります。私はこの3つの安否を確かめに行かされたのです。
 必死に急いだのでしょうか、長崎の街に着くまでについては特別の記憶がありません。
 日見トンネルを過ぎてからの長い下り坂を下って蛍茶屋についた時「ああ、長崎はやられ たんだ、爆撃されたんだ」と強くおもいました。灰、ものの焼けた、焦げた匂い、人々の 憔悴した表情などでそう感じたようです。伊勢町の伊勢神宮の横を通って中通りに入ると 道にはビッシリとガラスの破片が落ちていて、私の自転車はたちまちパンクし、乗れなく なりました。自転車を押しながら東小島の姉のいる家へ行きました。
 そこは長崎の街が見下ろせる高台ですが、家は大きな戦車が通り過ぎたようにがらんどうで、襖、障子などの建具が全部吹き飛ばされ、玄関から裏まで一目で見渡せる状態でした。被害は爆風によるものだけで、熱による火事などの被害はなく、屋根も柱も異常なしという、今から思うと不思議な被害でした。姉もその家の「おじさん」と呼んでいたご主人も無事で、家の中を一生懸命片づけていましたが、何か大掃除みたいだ、と思ったことを覚えています。

  それから爆心地へ向かいました。今から思うと爆心地ですが、その時は目的地がそこで、安 否を確かめたらその足で田結村へ帰るつもりでした。ですからパンクした自転車を押して 行きました。自転車はそのときの私にとって簡単には手放せない大事な宝物だったのです。
 東小島をでたのが3時過ぎだったと思います。
 浜の町、大波止を通って長崎駅前くらいまでは進むのにそんなに苦労はありませんでした。
 長崎駅前を過ぎてから負傷者を多く見るようになり、浦上駅前では道路に何人も並んで 座り込んで「水ば呉れ」「水!」「水ば!」と言っている人たちを見ました。声はもう力 なく、全身火傷です。大人たちはその傍を無言で歩いて行きます。水をあげる人はいませ ん。浦上駅前の電車の線路のうえには電車が焼けたまま止まっていました。外からは中に人かげが見えなかったのですが、乗客はどうなったのだろうかとぼんやり考えながら私は通り 過ぎました。

 岩川町から先は道路が通れなくなりました。家が倒壊して道路をふさいでいるのです。人 や馬が生きてるままの格好で真っ白の灰になって道路にあります。人は全部両手を前に何 かを抱えるような形にし、腰を落として白い像になってます。あれは驚いて腰を落とすのと 同時に一瞬のうちに灰になったのでしょう。その後、あの真っ白な像はどうなったのでし ょうか。風が吹いてさらさらと崩れてしまったのでしょうか。
 倒壊した家屋が電車の線路を覆うことはないので、先へ進む人は電車の線路の上を歩い ています。爆心地の方向へ行く人も線路の枕木を踏みながら行き交っていました。火傷し た皮膚をぶらさげて歩く人、飛び出した眼球をぶら下げて歩く人、皆お互いに声をかけあ うことは全くありませんでした。

  下の川にかかる小さな橋に来ました。みんな枕木の上をすたすたと歩いて渡っていきま す。枕木はぶすぶすと燻っていて、枕木と枕木の間の隙間の下に川の水が見えます。10歳 の私にはこの橋がどうしても渡れませんでした。恐る恐る枕木の上に足を出すと燻っている 熱が靴底から伝わってきます。もちろん自転車は抱えています。私は途方にくれましたが、 誰か助けてくれて川の向こうに渡してくれる人がいないだろうかとは考えもしませんでし た。それまでいくつもの死体、重傷者を見、それらに自分は関わることができない、関わ らないと心に決め、心を閉ざし、何を見ても心を動かさなくなっていましたので、まわりの皆もそうだろと思っていたのです。そして自転車を抱えて途方にくれている10歳の男の子 に声をかけてくれる人はやはりありませんでした。

 私は諦めて、左に行き、浦上川沿いに竹岩橋へ行き、浦上川の西側を通って駒場町の方 へ行こうと考えました。下の川から稲佐橋までの浦上川の川岸には三菱の工場があり ます。私は「兵器」と記憶しているのですが「製機」かもしれません。広い工場ですが、 私が通ったときは、この工場の柱は真っ赤な炎をあげて燃えていました。木の柱ではない、 鉄骨が燃えているのだと私は思いました。そばを通ると物凄い熱気が吹き付けてきます。
 皆走っていましたが、火傷を負った人にはこの熱気は耐え難いようで、その道から浦上川に 飛び込む人がいました。浦上川には死体がいくつも浮いて流れていて、 飛び込んだ人もすぐに死体になって浮いて流れたのだと後で聞きましたが、私は熱気の 中を通り過ぎるのが精一杯で川の中をゆっくり見ている余裕はありませんでした。
 竹岩橋は死体も含めいろんなものが山のように重なっていて通れません。もう一度電車 道へ出てどうすればいいかと考え、どうしても親戚の家にも工場にも行けず、とうとう 諦めて引き返すことにしました。そのときはもうかなり暗くなっていて、浦上駅の前を通る ときは、前に「水を呉れ!」と言っていた人達はまったく動かない黒い塊になっていました。

  その日は東小島の姉が寄留していたお宅に一晩厄介になりました。そこに着いた時はも う真っ暗で、8時を過ぎていたと思います。高台から見下ろすと長崎の街はまだ燃えていて、引地町、今の賑町から栄町へ西から東へと家並みが焼けて行くのが見えました。強制疎開の名目で家屋を倒し、あちこちに空き地を作っていた効果があったのでしょう。類焼していく火はあるところまで燃えて行くと自然に消えました。
 私は翌日、8月10日に田結村に帰りました。帰り着くと私の母は「まあ!」と驚いて、 いきなり井戸端に連れて行き頭からざぶざぶ水をかけて私を乱暴に洗いました。私は目だ けギラギラにさせて、頭から足の先までまっ黒だったそうです。

 私が行けなかった工場では、働いていた人全員が亡くなりました。親戚の谷口の家では、私より1歳年長で私とよくあそんでいたアキラという名の男の子とマツエというその母親が家にいて即死でしたが、父親のカツジと三人の姉妹が助かりました。谷口の家族は11日に田結村の私達のところへ来ました。伯父のカツジが私の母に報告をするのをそばで私も聞きましたが、マツエおばさんとアキラが死んでいたと告げて、伯父はあたりかまわず大声で泣きました。「マツエとアキラ。。。」。
 私は大の大人がこんなに大声でなくのかと驚き、圧倒されました。
 それから谷口一家は鹿児島県の甑島へ親戚を頼って行きました。その年甑島を阿久根台風 という超大型台風が襲い、谷口一家は山津波の中をずぶ濡れになって逃げ回らなくてはなりませんでした。
 その中で、姉妹の中の一番上のミヨコが死にました。原爆症だったそうです。

  被爆者として言い残しておきたいこと
  (1)原子爆弾は悪いものです。大国だから、自由主義の国だから、民主主義の国だから、 社会主義の国だから保有していいものではありません。
 (2)大量破壊兵器、大量殺人兵器も悪いものです。
 (3)戦争が最も悪いものです。相手が先に攻撃したからなどという例外を許すわけにはいきません。
 頑固に原爆反対、戦争反対を言い続けましょう。
(2005年)

  ・爆心地からの距離は、田結村は10キロですが、私の被爆者手帳は「当日入市、岩川町」とあります。手記に書いた下の川は浜口町ですが、被爆者手帳を申請するとき証人になって下さった方と岩川町で会ったのです。
 ・私の手記を掲載した本は「原爆体験60年 私たちの証言」と題して光陽出版から、出版されました。私の手元には1冊しかありません。あちこちの図書館に贈りましたが、残部を探すのは困難です。282ページのハードカバー、立派な本ですよ。 (2010年追記)