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長崎の声

男性 入市被爆
被爆時26歳 8567

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 記
 (1)ひとりっこの長女は被爆前の胎児であった。小学生になった頃から兄弟、姉妹がほしい と度々言われた。然し被爆の身であり、その放射能障害で突然変異が生じ奇形の子が生 れたらと心配し子作りを封念した。
 (2)被爆直後から3年間位黒めがねを着用しないと太陽光が目にしみて困りました。
 (3)以来耳鳴りになやんでます。
(2005年)

  被爆地 長崎三菱造船所 2.8Km
部隊名 第三特攻戦隊題31突撃隊(特殊潜航艇の部隊)

  私は妻から被爆者援護の為、広島市内に立ち入ったと聞えていたので、二次被爆者に該当すると思い、登録する事をすすめた。
 昭和35年3月頃は、本人の詳しい申し立てで登録することができた。しかし妻は登録を拒否した。その理由は、ひとり娘が被爆者の子であることが多くの人に知られると、将来結婚に支障を生ずると思うからとのことだった。
 年月が経ち、娘は幸い結婚することができたので、妻の二次被爆者の登録を試みた。登録受理官庁の県から、妻と一緒に広島市内に立ち入った2名の証人が必要であるとの指示が有った。
 妻は当時、呉市本町通り○丁目○番地に住んでいたので、その居住区の町内会長さんを経て証人捜しをお願いしようと思い書面を差し出したが、町内会長さんは死去されたとの事で、調査を断念した。その後、呉市役所にも証人捜しの事で連絡相談したが、不明との回答が有った。
 妻はその数年後体調を崩し、昭和48年3月癌である事が判明した。私は即座に二次被爆による放射線障害によるものではなかろうかと思った。
 妻は5年間の闘病生活の末、昭和53年8月30日に51歳の若さで他界した。被爆者の登録がなされていれば、被爆者援護法によって救われた点が多く有ったであろうと思うと残念でならない。

  現在は昭和35年代の登録手続きに比べ、被爆者である証人2名がなければ登録は受理されない。被団協発行の新聞には、毎回証人捜しの記事が載っている。
 国は、本人自身の真実なる申請を認めて欲しい。証人捜しをしている被爆者が一日も早く援護法により救われる事を切に願っている。
(2010年追記)