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長崎の声

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男性 入市被爆
被爆時17歳 / 富山県砺波市11189

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 私は昭和20年4月に長崎造船専門学校に入学しましたが、終戦の8月迄、敵機の襲来が 度々あり、授業中にも防空壕へ避難していましたが、8月9日の原爆投下の日は約8km 離れた香焼島で授業中でありました。原爆特有の閃光があり、暫くして窓ガラス吹き飛び ました。急いで防空壕へ行こうとしたが、ガラスの破片で無我夢中で踏み乍、階段を降り て壕に入りました。

 爆音は絶え間も無く続き、防空壕に入っていても落付かなかった。午 後二時頃、壕を出て空を見ると、艦載機がウンカの如く海の上空を飛び、何処を攻撃しよ うとしているか分からない。夕刻近くに壕を出て上級生の話を聴くと、新型爆弾が長崎市 上空で炸裂し、市街火の海となっているとの話、翌日から長崎市内に救護隊として島伝いで の連絡船で行きました。市街は伝えられた通り、全滅状態。

 長崎県庁も跡型もなく破壊され、爆風のすさまじさを見せつけられました。見渡す限り原爆の被害で、至る処に死者の 遺体がころがり、街を歩いていて馬車馬が横倒しになって死んで居り、川や焼け跡には人 の遺体が目に入り、真黒な顔をした学生が歩いて居り、電柱の塗料で書かれた看板は光の 当った処だけ真黒に焦げついていた。救援隊の仕事場では泣き叫ぶ被爆者、虫の息になっ て焼けただれた人達が。救護治療中の海軍軍医が虫の息になった被爆者を怒鳴りちらして 応急処置をしていました。

 小学校の爆弾の被害を受けた跡は三階建ての校舎がぶち抜かれ、 少々仕切だけ残った隅には子供の死体がころがり、もう恐いのも忘れ被爆者を防空壕から その救急隊迄担架で運ぶのが、我、その役目だった。丘陵地帯で上ったり下ったりで大変で あった。時々B29が遥か上空を澄み切った青空を飛ぶ。もう爆弾の攻撃もしない。唯飛 び行く許り、偵察飛行であった。救護隊で夕刻の帰り道、超低空の艦載機に襲われた事も あった。全身焼けたゞれた被害者が亡霊の如くさ迷い歩く者もあった。8月15日に天皇 陛下の終戦詔勅が下されるので聴く様に云われ、雑音の多いラジオで聴いたが、戦争は 負けたのだろうとしか判断がつかなかった。
 雑音ひどくはっきり聴き取れなかった事だけは覚えている。

 翌日戦争に負けても敵が上陸して来たら竹槍で応戦するのだと云っている者もあり、どう なるのか不安であった。そうこうしているとこんな処で戦をすると云ったって銃1丁あ るわけでなし、戦争は出来ない事が分かったらしく、今のうちに郷里へ帰れと云う事にな り、食料となる米2〜3kgを受け取りとにかく帰る事になり、焼け後に何一つない長崎駅の仮 小屋には切符を発売所だけはあった。そこに夜通し徹夜して並んでどうにか列車の乗る証、 所謂紙切れに長崎駅長の印を捺したものを受け取り、翌17日の列車で汽車に乗りました。 列車の中は大混雑で大阪行きの列車には泣き乍ら街の人達が列車で郷里へ帰る人達と一緒 であった。すすり泣や嘆き悲しむ人の多いことは数知れず恐らく家族は離ればなれで身内も なく悲しんでいる人もあったと思う。それで午後2時頃列車は発車した。

 国破れて山河ありとは云い習わされた言葉だが誠に悲しい結末ではあった。
 二昼夜かけて夜の10時頃、高岡駅に着きローカル線に乗り換えて福野駅に着いたが、駅でね て朝家へ帰ろうとしたが、蚊の襲撃で寝られたものでなく、とうとう5km程歩いて夜中の12 時か午前零時頃に家に着いた。夜中に家についた。両親が起きて出迎えて呉れた。
(2005年)