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長崎の声

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磯田保さん 入市被爆(坂本)
被爆時17歳 / 埼玉県三郷市3434

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 8月9日午前11時02分、長崎市に原爆投下された後、学徒動員で市内坂本町長崎医大周辺の後かたづけを行った。
 また、諫早市に搬送された被災者が諫早中学に収容され、その治療を行うため諫早駅近くの海軍病院(分院)に転送し救護をした。その収容先を見ると、火傷のほうたいの裏には「ウジ」ができ、その臭気と共に忘れることができない。

 このように被爆による記憶はいまだに忘れることができません。絶対核戦争は避けよう。次世代にお願いしたい。
(2005年)

    被爆について思うこと
    ―平和あっての幸せ―
 昭和20年8月9日午前11時2分、長崎市に原子爆弾が投下された時、私は諫早市、四面橋近くの写真館の玄関にいた。丁度、空襲警報のサイレンが鳴って間もなくB29一機が雲間を長崎方面へ飛んで行くのを見た。暫くして一瞬、閃光が走ったかと思った途端、窓ガラスがガタガタと大きく揺れたので咄嗟に道路の側溝に身を伏せた。これは広島に投下された新型爆弾(現、原子爆弾)ではないかと思った。

 私は急ぎ寄宿舎に帰った。そして午後3時頃であったか、西の空が真黒になり、約30分の間、灰まじりのどしゃ降りとなった。その後、長崎市の状況は不明であったが、夕方になるとラジオが町内のマイクを通じて長崎市が投下された爆弾により被害を受け、汽車やトラック等で諫早か大村の病院に搬送されていることで、その惨状を知った。
 そして8月19日、諫早市に搬送された被災者を、更に諫早中学校(現、諫早高等学校)や諫早小学校(現、諫早市役所)から海軍病院諫早分院(現、健康保険諫早総合病院)に転送するため奉仕作業を行った。仮収容されている被災者は全身、火傷を負い、女性の長い髪は縮れ、男女の区別もつかないような状態であった。そして異臭が漂う中、近づいて見ると、頭髪1本、1本に蛆が天井を向いて付着し、白シャツの袖口には無数の蛆が湧いていた。中には多少元気な被災者は校庭傍の小川で、その蛆を払い落としている者もいた。

 こうした被災者を堆肥を運ぶ担架で2人一組、または4人一組となって海軍病院諫早分院まで移送した。
 移送された被災者は、かつての従軍看護婦が身体の蛆を奇麗に落した後、全身に塗りつけてあったワラ灰(止血用)をピンセットでパリパリと剥ぎ取ると、鮮血が流れる。その一方で、赤チンキをスプレーすると被災者は悲鳴をあげていたその様は「生き地獄」を見るようであった。移送された被災者の中には何人かが息絶えた方も見られた。
 また、移送に参加した生徒の中には体調を崩した者もおり、私もあの異臭を思うと食欲不振となり、4日間程寝込んでしまった。

 さらに、8月21〜22日頃、田川、緒方両教官に引率され、午前10時頃、諫早駅から汽車に乗り、同11時頃、浦上駅に到着した。驚いたのは、目前は黒焦げになった木々が山肌に沿って放射線状になぎ倒れていたほか、焼野ヶ原となった左手の山の麓に片足の鳥居が立っていたことである。
 また、長崎医大付属病院へ向う途中の道路は進駐軍がブルドーザーで押して、車が通れるほどに整理されていたが、その片隅では遺体を焼いた残り火であろうか、煙と死臭が漂っていた。
 早速、長崎医大に到着し、病院付近の白骨化した遺体を、病院の上の空き地に運び焼く作業を行ったが、その惨状は白骨した遺体や馬の骨が散乱しており、原子爆弾の破壊力に驚いた。
 そして、両教官から示された作業を終り、午後5時頃に浦上駅から汽車に乗り、諫早駅で下車し寄宿舎に帰った。

 被爆60年間を振り返って見ると、被爆による人体への影響はガン、白血病が多いと聞く。私の学友もクラス約50名中、6名が肺ガン、白血病で亡くなった。このように被爆による惨状は私の脳裡から消え去ることはありません。私どもの幸せは平和があってのことです。静かなる明日の平和を祈ります。
           筆者:長崎県立農学校3年(17才)、寄宿舎在住
(2010年送付)