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長崎の声

多々良美治さん 救護被爆
被爆時17歳 / 宮崎県国富町1577

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
  3日目から道路で死んでいる、真っ黒く焼けただれて、名札も着ているものもない、どこの誰とも解らない死体を、何箇所にも集めて、柱の燃え残りや、板タルキなど敷いて、其の上に死体を乗せて焼いてみましたが、人間の体は簡単には燃えず、腸や頭は茶色い汁が出て、中々骨にはなりませんでした。死体を焼くととても嫌な匂いがしました。8月の炎天下です、死体を焼くそばにいると、私たちも暑いので喉が渇きます。当時は放射能を浴びたとも解らず、水道の水を毎日飲んでいたのです。焼け跡の水は冷たくて、うまい水だと感じました。私たちの居た場所は、町中で一番高い所で、焼け跡が一目で見渡せる所でした。崩れた鳥居のあるところでしたから、神社があったものと思います。昼になるとそこにいかないと、昼食の握り飯二個がもらえません。その握り飯は、香焼島造船所からの炊き出しでした。

  三日目から真っ黒く焦げた死体焼きを、14日までしました。死体集めをしていたら、途中豆腐屋だったかどうか解りませんが、大豆が一俵上の方だけが、真っ黒くこげていましたが、中の方を見たら、綺麗に蒸し焼きになっていました。口の中に放り込んでみたらうまかった。若い少年や青年たちです、ほかに食べ物もなく、何時も腹が減るので、皆ポケットに詰め込んで、死体片付けをした手も洗わず、一日中その蒸し焼き大豆を食べていたのです。その当時は放射能を浴びた、大豆とは知る由もなし。それに4日目ごろから、港にあった日本冷蔵の缶詰工場にいって、焼けてパンパン破裂する缶詰を、火傷をしないように、長い鉄の棒を拾ってきてその棒で缶詰を引っ張り出して、皆のいるところに持って行き、焼け跡から拾ってきた真っ赤に錆びた包丁で、缶を開けて、死体片付けをした手を水道の水で洗うだけ、箸がないので、皆手づかみで食べました。鰯が一缶に七匹入っていて、一缶食べると腹一杯になるので、救援に出ている間、毎日拾いに行きました。途中焼け跡に、何枚ものビラが落ちているので、それを拾って読んでみたら、広島にも原爆を落としたが、今度は長崎にも落とすから一刻も早く都市より疎開せよと書いたビラでした。そして天皇陛下に早く降参するようにと、書いたビラでした。そんなビラを持っていると、憲兵に見つかると大変だから、破って捨てろというから破って捨てましたが、今長崎の原爆資料館に行くと、私たちの拾ったビラと一緒のビラが、原爆資料館に貼ってあります。全部日本語で書いてありました。皆新型爆弾とか、ピカドンとか言っていましたが、私たちはビラを拾ったときから、原子爆弾ということを知っていました。

  15日は朝になって、天皇のお言葉があるということで、救援には行かず会社で待機をしていました。昭和20年8月15日、この日が終戦だったのです。16日が徴用解除、わが郷里に帰るため同じ寮で宮崎に帰る友7名で、長崎の駅に行きましたが、7日経っても鉄道線路の枕木がくすぶっていました。駅は崩れて形だけ、駅員は1人もいません。しばらく待っていると、汽車が入ってきたので、切符も買わずに皆一緒に汽車に乗り込みました。何処だったかは覚えていませんが、空襲で駅が壊され途中汽車から降りて、次の駅まで歩きました。一時間ぐらい皆と一緒に歩きました、乗継で佐賀の鳥栖駅で、吉都線に乗り換えて、飯も食わず駅で水だけ飲んで、2日がかりで都城に着き、又日豊線に乗り換えて、やっと南宮崎に着きました。汽車を降りて切符もないので、駅の改札口に行って皆と一緒に事情を話し、長崎駅から乗ったといって汽車賃を払いました。同じ汽車で帰った友7名、駅で再会を約し、やっとのおもいで我が家にたどり着きほっとしたのもつかの間、翌18日より熱が出て、近くの福島病院にリヤカーに乗せて連れて行ってもらったのですが、病名も解らず毎日38度39度と、熱が続きました。当時は原爆の放射能を浴びたということさえ、わからなかったのです。

  15日ぐらい経ってやっと熱が下がりました。その時から髪の毛が抜け始めたのです。半年ぐらい、丸坊主でした、終戦後だったから、帽子の買うのもありません。その時の年齢17歳、何処へ行くにも恥ずかしくて、手ぬぐいを破っていきました。人のいないところでは、もう髪の毛は生えてこないと、何時も涙を流して泣いていたのです。半年ぐらい経って髪の毛が、すこしづつ手で頭を撫でる度に、ざらざらと生えてきたのです。

 その時の嬉しかった事、60年経った今でも、はっきり覚えています。一緒に長崎から帰った友は、若くして皆亡くなりました。運よく私一人生き延びています。私も放射能を浴びたせいか30歳代から、両手が曲がったままです。顔を洗ったり汗が出たりしても、手が曲がらないので不自由しています。思えば昭和20年8月6日広島、9日が長崎と64年前が思い出されます。これからも、原爆で犠牲になった人のことを1人でも、多くの人に話して、如何に原爆が悲惨で、惨たらしいものであったかを、若い世代に語り継いで、行かねばならないと思っています。一瞬にして家族を失い、食べ物もなく誰からも看取られずに死んで逝った、被爆者の話を私が生きているうちに、語りついで行かねばならないと思っています。無念の死を遂げた被爆者、過ちを二度と繰り返さないためにも、憲法九条を守り核戦争をなくして、行かなければなりません。それが被爆者の願いです。
(2010年送付)