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長崎の声

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女性 救護被爆(大村市)
被爆時16歳 7696

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 昭和20年の8月9日長崎師範学校女子部は全寮制で大村市にあった。16才の学生の私 は真夏に暑い教室で授業を受けていた。パッと教室内にものすごい光がはしった。皆あわ てて机の下にもぐりこんだ。何秒過ぎたか先生の指示で防空壕にとびこんで息をひそめた。 その夜は防空壕近くの庭で全員野宿だった。星はかがやいていた。広島に新型爆弾がおち たので長崎もそうではないかと友だちと話していた。

 翌日からどんどん汽車で原爆患者が移送される病院で看護にあたった。病院の部屋も廊下も玄関もゴロ寝だった。歩くところがないので寝てる患者をまたいで救護にあたった。ホータイ巻きや傷口にうようよとわくうじ虫をとったり、食べ物を配布したり「暑い暑い」という人をうちわであおいでやったり、救護の手伝いをした。話が出来ず声が出ない患者さんがかすかに口を動かし力のない手でモンペのすそをひっぱる人が多く、訴える様に口びるを動かしていた。「水、水、」という声が今も耳に残っている。

 翌日病院へ行くと昨日迄苦しんでいた人がいなくなっている事が度々あった。死亡したのだろうと予想はしたがその様な事は一斉学生には知らせられなかった。

 主人も当時長崎師範男子部は長崎にあったので原爆直下だった。当日は学徒動員で三菱兵きで作業をしていたそうだが、原爆でまわりがくずれ、がれきの下で気をうしなっていたそうです。あついので気がつくとすぐそば迄火事で火がもえていて、がれきの中からはいあがり山の方へ人のあとを走って、その夜は山の上で一晩中火がもえるのを見てすごしたそうです。翌日助けられ傷の手当てをしましたが体中きずばかりでした。
 51才で血液ができなくなって死亡しました。被爆当時はめていた手袋は油と血液がにじんでいますが今現在も神棚にまつっています。
(2005年)