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長崎の声

女性 不明
被爆時25歳 / 熊本県熊本市2120

写真撮影:松本栄一
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
 私は太平洋戦争の前に北支戦争から帰りやっと体力が出た人と縁ありて長崎で結婚(歯 科医)。又再度赤紙来て結婚5日位して召集で主人は軍隊に入り後、4年主人の両親を見て長崎で暮し、太平洋戦争はじまり何かと大変でした。運命と云え、戦争のおろかさが身にしみました。

 前にも書いた様に、両親をみて4、5年、原爆の9日前に里の姉のひどい病気の手伝いに行って留守に両親死亡、家も焼け、後、何の連絡もないので帰ってみて何もかも焼けてしまい、爆心地でしたのでやっと生きのびた知人(婦人、教会牧師)と共に焼後を見たり、(何もなし)かんたんな葬式をして熊本に(里の家)帰り、以後肩に大きい(おでき)が出たり気力なくぼんやり暮し虚脱状態のため、仲人さんの家に呼んで下さり、仲人の医者の方が2ヶ月見て下さり(長崎の田舎海辺)やっと仕事やる気が出て防空ごうの中只一個焼のこりの手ミシンを送り、其れを足つけて友達と三人洋裁を始める。其の間終戦後主人戦死(ビルマ)(出征S16年太平洋戦争)。

 6年後再婚して子供2人。後、里の母が年を取り(いけばな教授)勉強して(資格取りいけばな教授)、いけばな教授して里の母にも手助けする(親孝行)。再婚後、80才までいけばな教授後生活出来なくなり、少ない年金と、被爆者健康手当と、娘の援助で軽費老人ホームに入居今日に至る。
 間に、原爆者に国債が10万あるとの事でしたが再婚してるし、25年結婚までは籍は長 崎だったけど受取る資格は妻にはなしとの事で、長崎の後しまつやら葬式等一人でして来て力つきました。

 戦争は大反対です。(80才より・・軽費ホーム入居)
 (ミシンは昭和40年頃すてる?)洋裁やめる。里の母が年をとり、私が勉強して、いけばな教授のしかくをとる。
(2005年)

 願う事は戦争のない事と子供の幸せです。今91才の私は、いつ天国にいってもよい心です。よく生きて来たと自らをほめてます。
 何年かして長崎の知人がしらべて、いくらか送金してくれました。
 何もかも原爆で亡くして、長崎の家の財産も不明で何で生きてこれたか?

 長崎に私の叔父営林署長在中で遊びに行、教会に牧師様に市内の案内をたのみましたら、結婚した主人に紹介されて市内見物して、4日〜5日御会した後、牧師様より結婚はどうかと云われ、熊本の家に来てもらい母にも会ってもらい気に入ってくれて婚約する。式は先にきまり、結婚の準備をするうち二度目の又赤紙来る。急ぎ式をあげる。其の頃婚約を止める方も多かったのですが、人柄がよく人情にひかれて主人の両親を見て行く決心をする。其の後4年程出征兵士の嫁として長崎在住して両親を見る。昭和20年原爆投下さる。8月9日。終戦。私は25才でした。

 里の母、姉も90才で亡くなり感謝の生活です。
 今は何事も運命と思い今日まで生きてこれたのを感謝してます。
 多くの人に助けられ、多くの人の温情にあずかり子供二人、孫五人曽孫一人恵まれそれぞれ幸せなら私は一番嬉しいことです。戦争大反対です。私の人生はその為大変りしたのですから…
 このホームも大変なこと、楽しい事色々です。皆様のお心を有難いと思います。以上91才。
(2010年追記)