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《平和を祈る人たちへ》
心の苛(さいな)みを聞きながら

梶谷 禮子
高女五十回・専家二十四回・専英二十五回、山口県下関市在住

 昭和二十年八月六日、月曜日、私は広島女学院専門学校家事科三年生で、動員学徒として向洋(むかいなだ)の東洋工業(現マツダ)で働いておりました。

 前日が日曜で姉と姉の友達の家に「タイからの留学生が来るから一緒にお茶の会をしましょう」と誘われ、二人の留学生と私たちで楽しい小さな音楽会をしました。その頃は家でピアノの音をたてることも不謹慎と言われましたが、たまのお休みの日くらいはと、ピアノを弾いて日本の歌を歌い、留学生はバイオリンを持ってきて「トロイメライ」を弾いてくれたのを覚えています。めったにないそんな楽しい一日のことを「早く友達に話さないと」と、私は六日の朝は早く工場に行き友達に会いたいと思っていました。だから、五日市の駅にいつもの列車が遅れたため、前の列車が到着すると、すぐにその列車に乗り工場に急いだのでした。いつもなら怠け者の私は遅れてくるいつもの列車に乗ったはずです。ところが、その日は楽しかった日曜日の話を友達にしたくて工場に急いだのでした。

 向洋に着くと学徒は二列に並び、工場の門を通過する時は「頭(かしら)ー、右ー」の号令で歩調を取り、中に入りました。作業服は油でドロドロ状態でしたが、皆平気でした。平気というより慣れてしまったという方が合っているでしょう。そしてまず学徒の控室に入るのです。バラック建ての大きな控室に粗末な長い木製の机とベンチが並び、学徒はそこで着替え、食事をし、休憩をするのです。

 その日、椅子に座るとすぐ、私は前日の話をいつ切り出そうかとムズムズしていました。その時、誰かが「あっ、B29」と叫び、窓の外を指差しました。私もその指の先に目をやりました。雲一つない青空に、美しい飛行機雲の弧を描きB29が飛んでいるのです。空襲警報解除なのにB29が飛んでいるのです。私たちはボンヤリと飛行機を眺めていました。と、その時、飛行機から何か黒い丸いものが落とされました。「何だ!」と思った瞬間、ピカッと光りました。誰かが照明弾と叫びました。「照明弾! まさか、こんなに明るいのに」と言おうとしたところまで記憶しています。それから私の記憶は途絶えてしまいました。

 私はフワリフワリと宙を浮いているようです。何かの方向に向かって泳いでいるような・・・。ただ一人で誰もいません。どうしたのだろう。ここは一体どこなのだろうと、ただなされるままにフラフラと流れているようでした。遠くで音が聞こえ始めました。だんだんと音が近づいてくる。音が大きく聞こえ始めました。人の声だ、誰かが呼んでいる・・・。ここで私の目が覚めたようです。私は気を失っていたのでした。辺りは真っ黒で何も見えません。しばらくは何がどうなったのか分かりませんでしたが、だんだんと辺りの様子が見え始め、床に倒れている自分を知りました。

 控室には窓ガラスが飛び散り、机や椅子が倒れていました。私も座っていた所から、随分と遠くまで飛ばされているのを知りました。皆、友の名前を呼び合い、控室の外に出始めました。私が外に出た時はほとんどの学徒が出ていました。窓ガラスで顔に傷をしている人もいましたが、お互いの無事を確かめ合い、皆深刻な表情をしていました。

 先生から「広島が空襲を受けた。学徒は広島の人たちを助けに行くようになる」と言われましたが、すぐに「学徒の手には負えない。とにかく皆帰宅するように」と言われました。「列車をはじめ全ての交通機関がやられている。歩いて帰るように、高女部、専門部、一緒に同じ方角の者が集まりまとまって帰るように」と言われました。

 一体何が起こったのだろうか。工場の土手から広島の方角を見るとモクモクと白い雲がわき上り大きなきのこの形になっていきました。あれは何だろう。爆弾が兵器廠(しょう)に落とされ、中の火薬や爆弾が一斉に爆発したのだろうなどといろいろな想像をしました。私たち己斐(こい)方面に帰る者は、二十四、五名いたように思います。神崎修枝先生が己斐方面に帰る者をまとめ引率してくださいました。「まず広島駅まで行こう」と工場を出た時、広島から呉方面に避難して行く人たちの姿を見て思わず息をのんで立ち止ってしまいました。

 全身に火傷を負って、黒ずんだ体を引きずりながら歩いている人の列、黒く焼けた皮膚がぼろ布のように垂れ下り、一歩、一歩よろめきながら歩く人の群れ、生まれて初めての光景に足がすくんでしまいました。「頑張って帰ろう」。誰かの声に、私も「頑張ろう」と高女部の人を励ましていました。とにかく強くなろう。家に帰るのだ。工場を出て広島駅までは、呉方面に避難する人たちと反対の道を歩きました。広島駅の近くを通り多くの被災者の中に加わりながら牛田山へと向かいました。途中、川辺に横たわり水を求める人、その人たちの低いうめき声、「水、水を」と水を求める声に、私たちは何もしてあげることができず、ただ黙々と歩きました。「ごめんなさい」と心の中で言いながら、心の苛(さいな)みを聞きながら、立ち止まることなく歩き続けました。静かな行列でした。その列からもついにはみ出して倒れてしまう人たち、私は思考力も感情も全て失った一個の物体となってひたすら歩き続けました。すさまじい地獄の中の行列でした。

 広島駅の近くで一台のトラックが多くの負傷した人たちを乗せて止まっているのを見ました。後の荷台に突っ立って乗っている人たちの髪の毛が一本一本逆立ち、青黒い顔、力なく遠くを見つめる眼、人が極度の恐怖に襲われた時は髪が逆立つということを知りました。火傷した体をやっと支えながら、ただ成り行きに任せるしかない人の群れ、こんな人たちを見て私は震えました。戦争はこんなに残酷で惨いことなのだ。これから私たちはどうなるのだろうか。とにかく家に帰らねば・・・。私は黙って歩き続けました。

 途中、牛田の川辺で一度休憩しました。先生がリュックの中から大きなトマトを取り出されました。神崎先生は前日の日曜日に田舎に住むお友達のところに買い出しに行かれ泊まってこられたということでした。「トマトとジャガイモがあるけど、ジャガイモは生では無理ね。トマトは二個しかないけど、大きいから皆で分けましょう」と言って、私たちに一つを下さいました。たしか十二、三人で分けたように思います。ほんの小さな一切れでしたがとてもおいしく、こんなにおいしいトマトは初めてだと思いました。

 横川を少し行った所で、高女部の生徒の家に立ち寄りました。家は半壊状態で、外のトタン板に炭で書かれた行き先と、「皆大丈夫だから安心しなさい、どこどこに行くから、そちらに来るように」と書かれていました。先生は「線路に沿って行くとよい。頑張るのですよ」と励ましておられました。

 己斐駅で婦人会の人から湯茶の接待を受けました。麦茶と乾パン一袋を頂き、「お帰りなさい。よく頑張りましたね」というやさしい言葉に、ここからは大丈夫なのだとホッと一息ついたのを覚えています。己斐は倒れた家もあったようですが、大きな火事にはならなかったようでした。己斐に着いた時はもう暗くなっており、続けて五日市まで歩くことは無理なので友達の家に泊まることになりました。友達の家はどうにか建ってはいたけれど屋根が外れ、家の中は窓ガラスが全部割れて散らばり、戸棚が倒れ、いろいろな物の破片が散らばっていました。お母さんが娘の帰りを待っておられました。私たちを見て、「五日市まで帰るのは無理だから、ここで泊まって行きなさい」と、場所をつくってくださいました。何人で泊まったかは忘れましたが、四、五人だったように思います。

 散らかったガラスを片付け、四、五人の寝る場所をつくり蚊帳(かや)を吊りました。家の戸や窓が全部壊れているので、蚊はいませんでしたが蚊帳で囲いをつくり、その中に横になりました。蚊帳の中で乾パンをかじりました。電気が点かず、暗闇の中に横になると壊れた窓から外が見えました。広島は焼き尽くされ、遠くに一カ所燃えている火が見えました。広く深い暗闇の中に真っ赤に燃え上がっていました。

 「あれは比治山辺りのようね」。一人が言いました。「そうね。ここから比治山が見えるなんて、すごいわね」。ボソボソとこんな会話をしたように思います。何もかも破壊され焼き尽くされて、所々に建物の鉄骨が黒く残っていました。とにかく家に帰りたい、五日市の家族はどうなっただろうか、広島に働きに出た父は大丈夫だっただろうか、学徒動員で出た弟は無事だろうか、といろいろと考え始め眠れない夜でした。

 翌朝五時頃に起き、そのまま五日市へと向かいました。二人の友と一緒に着の身着のまま、顔も洗わず、頂いた乾パンを食べながら歩きました。何かを履いていたと思います。この頃は配給の下駄ばかりの生活だったし、夏のことだから下駄を履いていたように思うけれど、記憶がありません。また、ひどく暑かっただろうと思うけれど、暑かったという記憶もありません。ただ一心に早く家に帰り家族に会いたいということだけでした。

 五日市に着いたのは九時頃ではなかったかと思います。町中の人たちが家の前に立ち、広島から帰ってくる家族を待っていました。家に近づいた時、近所の人が私を見つけ、「あっ、梶谷さんとこの禮子さん」と叫び、走って私の家に知らせに行きました。私は急に涙があふれ出て、泣きながらその後を追いました。それまで出なかった涙が次々とあふれ出るのです。家族の帰りを待っていた町の人々が、「良かった。良かった」と迎えてくれました。私は声をあげて泣き、走りました。知らせを聞いた父が玄関で私を抱き留めてくれました。そして母が・・・。三人が抱き合って泣きました。母は朝早くお風呂をわかして待っていてくれました。顔も体も黒く汚れて帰りましたので、すぐお風呂に入り寝ました。家族の無事を知り安心したのでしょう、熟睡しました。

 二時間ばかり寝たところに、隣組の人が来て、広島からの被災者が多いので、炊き出しをするから手伝いに来てくれと言われ、近くのお寺の炊飯場に行きました。大きな平釜でお米を炊き、おにぎりにして配るのです。できたおにぎりをリヤカーで役場まで運びました。役場の土間や板間に、多くの火傷した人が 横になったり、壁に寄りかかったりして、避難場所の割り当てられるのを待っていました。傷口にハエがたかり、傷の中をウジ虫が這っているのです。火傷の人はもう、ハエを払う力もなくしていました。私がウジを除こうとすると痛いのでしょう、顔をピクッとゆがめて目をつぶり、やっと体を支えておられるようでした。私たちの配ったおにぎりも、ただ眺めているだけで食べる力も失っておられました。生きている人の体がそのまま腐り、ハエがたかりウジ虫が生まれる。こんな光景を目にし、何もしてあげられない自分、地獄の中でただ這いずりまわっている自分でしかありませんでした。

 お寺の炊き出しを終えて帰ると、私の家にも被災者が割り当てられ、玄関に三人、座敷に二人来ておられ、狭い家がいっぱいになっていました。この中で忘れられないことがあります。玄関に住むようになった三人は、靴屋さんの夫婦と女の子。女の子は四歳か五歳だったと思います。女の子は全身に火傷を負っていました。名前を忘れましたので、仮に道子ちゃんとしておきましょう。

 道子ちゃんは父親の背に負われて「痛いよう、痛いよう」と泣いていました。私の母が布団を敷き、寝かせるように言いました。道子ちゃんはやっと休める布団に寝かされましたが、痛い痛いと細い声で泣き続けていました。母が古いゆかたを解き、布にして、釜の湯の中に入れ煮沸消毒し、道子ちゃんの包帯をつくりました。薬は火傷用のチンキの小瓶が一つあるだけで、一回つけるのにも間に合いませんでした。そのままそっと包帯をしましたが、全身顔まで火傷をしているので包帯を着ているようでした。毎日、痛い痛いと泣き、泣き疲れて寝るということで、医者もなく、薬もなく、何もしてあげられず、大人はただ見守って団扇(うちわ)で涼しい風を送ってやるのが精いっぱいでした。

 泣き声もだんだん力が弱くなり、か細くなってきました。その時、私一人が留守番を頼まれ、道子ちゃんのそばで本を読んでいたのですが、急に道子ちゃんが話し始めたのです。眠ったままで・・・。でも、はっきりと分かる元気な声で「お母ちゃん、お花がきれいね。蝶々もいるよ。ほらそこに、蝶々をとってよ。ほらあそこにもいるよ。早く早く、こっちよ」。私は驚き、本を置いて道子ちゃんの顔を見ました。スヤスヤと気持ちよく寝ているではありませんか。美しい花野の夢を見ているのです。しばらくその中にさ迷っているようでしたが、声が細くなり途絶えてしまいました。「おばさん、道子ちゃんが・・・。誰か来て。道子ちゃんが」と慌てて皆を呼びましたが、道子ちゃんはそのまま安らかに逝きました。火傷の苦しさから解放され、静かな安らかな死でした。

 また、こんなことがありました。靴屋さん夫婦は避難してくる途中、壊れたリヤカーを見つけ、道子ちゃんを乗せ、食べる物がないと困るので食糧廠(しょう)の焼け跡を通る時、大きな缶詰を見つけ、三個そのリヤカーに積んで来られました。直径二十センチもあるような缶詰で軍の食糧としてつくられたものでした。缶詰を二個、私の家族で食べてくださいと出されましたが、母は「今からも必要となる食料ですから頂くことはできません。大事に持っておられたら後で役立つでしょう」と、お断りしていました。缶詰の外側はピカピカしている新品なのです。靴屋さんは「こんなにお世話になっているのだから、これくらいは取ってください」と幾度も言われ、ついつい頂くことになりました。「それでは皆さんで今日の夕食に頂きましょう」ということになりました。毎日代用食ばかりでおなかをすかしている私たちは大喜び。久しぶりの缶詰です。古い缶切りを探し出し、弟がギコギコと缶を切り始めました。中に何が入っているのか、開くのが待ち遠しく、子どもたちの目は缶に集中していました。開けてびっくり、中は牛蒡(ごぼう)の煮たものでしたが何と真っ黒い炭となっていました。三缶とも全部、外はピカピカの新品なのに、中は炭になった牛蒡が並んでいました。皆は期待を裏切られ、ひどく落胆し、しばらくは口もきけないほどでしたが、やがてみんな笑い出しました。涙が出るほど笑いました。この重たい缶詰を三缶も病人を抱えながら広島から五日市まで一生懸命リヤカーで運んだ靴屋さんの気持ちを思うと、言葉もなく、ただやるせない涙の笑いとなったのを思い出します。

 靴屋さん夫婦と私の家族で、道子ちゃんを荼毘(だび)に付しました。母が苦心して集めた薪(まき)を大八車に積み、道子ちゃんは木綿の布で包み、薪の上に寝かせ野の花を添えての弔いの列でした。道子ちゃんのお骨を拾い、靴屋さん夫婦は親戚を頼って行かれました。

 座敷に泊まっていた被災者の一人が高熱を出して動けなくなりました。皮膚に斑点が出て吐血し始めたのです。町の医者は「何の病気かはっきりと分からないが、伝染病のようだ。お宅は子どもさんが多いからうつらないように、隔離所に入れなさい。国民学校が隔離所になっているから、すぐに国民学校に連れて行きなさい」と言われ、母がまた大八車を借りに行き、その上に戸板をのせ、病人を運んだのを覚えています。後で思えば、伝染病でも何でもなく、放射能にやられたということなのですが、当時はどんな爆弾が落とされたのかも知らず、原子爆弾とか放射能という言葉は誰も知りませんでした。家では座敷の畳をクレゾール液でふいたり手を消毒したりしたものです。

 八月十五日に終戦となりましたが、毎日大変な生活でした。食料がなく、配給の芋の粉を丸めて焼いたり蒸したりして食べ、お米にたっぷりの水を入れて雑炊をつくりました。母は食料の買い出しにモンペ姿に大きなリュックを背負って農家を訪ねて歩きました。箪笥(たんす)から次々と着物がなくなり、お米や芋に変わりました。

 九月三十日に、私たちは家事科を繰り上げ卒業しました。牛田山に集まり屋外での卒業式でした。卒業証書をよく見ると英文科と書かれている証書の上に家事科と書かれている紙が貼られています。先生方も証書をつくるのにご苦労なさったことでしょう。原爆を受けてから私が広島に出たのは、この日が初めてでした。一カ月以上経っていましたが、広島はまだ焼け野が原で、己斐駅から福屋百貨店の痛々しい鉄骨が見えました。広島駅付近に小さな粗末な小屋が建ち始め、懸命に生きる人たちの姿が見られました。

 ここで同級生のTさんのお話をしたいと思います。福屋百貨店が開店するというので、福屋を見たいと、オープンの日に出かけました。あの鉄骨だけの福屋が元気に立ち上がったということは私たちにもその元気を与えてくれました。一階だけだったと思いますが、品物が並び多くの人を集めていました。その日に私はTさんと会ったのです。頭をスカーフで包み、お顔にはガラスの傷跡が生々しく残っていました。呼び止められてもどなたか分からないほどでした。Tさんは私に八月六日の出来事をつぶさに話してくれました。

 Tさんは裁判所にお勤めのお父上と官舎に住んでおられました。お母上と妹さんたちは疎開しておられ、広島の官舎はTさんとお父上の二人の生活でした。六日の八時十五分、お父上は裁判所へ出勤しようと玄関におられ、Tさんは奥の座敷におられたようです。突然の爆風と共に家の下敷きとなり、しばらく気を失っておられたそうです。意識が戻った時、お父上のTさんを呼ぶ声が聞こえて、Tさんは「お父さん、私はここです」と大声で知らせ出ようとするけれど、太い梁(はり)が体の上にのしかかり出られません。上半身が少し自由になった時、手さぐりで木片を拾い梁を叩いて、お父上に居場所を知らせ続けたそうです。お父上は玄関におられたので、すぐに出られたのです。お父上が、Tさんの声や叩く音で、その辺りの木材を動かしておられる様子が、Tさんに聞こえてくるのですが、なかなか近づきません。

 そうしているうちに、煙が中に入って来て家が火事になりかけている様子が分かったそうです。Tさんは「お父さんは逃げられるのだから逃げてください。私は覚悟しましたから大丈夫です。ここで死にます。お父さんは早く逃げてください」と言ったそうです。お父上はそれでも何か動かしておられた様子でしたが、しばらくして水が流れる音が聞こえ、「T子、もう駄目だ。すまない、許しておくれ。水を流すから、末期の水と思っておくれ」と悲痛な声で言われたそうです。Tさんは目を閉じて、お父上の最期のお別れの言葉に涙していたところ、また音が聞こえ、お父上が上の木材を動かしておられるのを知ったそうです。しばらくして、どうした弾みか梁が動き、Tさんの体が自由になり、外に出られたのだそうです。お父上は一度あきらめたものの、またすぐに戻り、木材を動かしてTさんを助け出されたのです。外に出た時は、家は燃え始めており、お父上に助けられながら水をかぶり火の中をくぐって逃げたそうです。Tさんは「お父さんのためなら火の中でも飛び込める。あの時は意識もしっかりしていたから、あのままだったら、生きたまま火炙(ひあぶ)りの刑と同じなのよ。お父さんに助けてもらってありがたいと思っています」と、私に語りました。家屋の下敷きになり焼け死んだ人々は、Tさんの言われるように生きたまま火炙りの刑に処せられたのです。

 テレビのニュースで広島のきのこ雲を見る時、私はあの雲の中に多くの火炙りの刑を受けている人の姿が見えてくるのです。地球上に核兵器、原爆はあってはならないのです。エノラゲイの投下した、たった一個の爆弾が幾万もの人々を焼き、またその放射能で多くの人々を、動物を、植物を、すべての自然を破壊したこと、その後も後遺症に苦しむ人たち、子や孫に及ぶものの翳(かげ)を心の隅に抱えて生きている人たちを思う時、核兵器を地球上に置いてはならない、もちろんその使用を決して許してはならないと思います。私たちの大切な地球が核兵器によって汚染され、滅びてしまうと思うのです。

 Tさんとお父上はその後、別府に移られ療養しておられましたが、お父上を看取られ、Tさんも数年前に亡くなりました。

 あれから六十年経ちました。私は昭和二十年の十二月に高熱が続き、病名の分からない病気にかかり寝込んだこともありました。人間の残忍さ、醜さばかりを見せつけられた原爆投下に、同じ人間であることをやめたいと思い自殺も考えたこともありましたが、私が生きて帰ったことを喜び、抱き留めてくれた両親を思うと死ねませんでした。

 でも、今思うと生きて良かったと思います。六十年間で多くの人々の愛を知ったし、苦しかったけれど楽しい思い出が多く、人生の素晴らしさを学ぶことができました。もし、あの時に死を選んでいたら、私は憎しみばかりの憐れな人間で終わっていたでしょう。人と人、民族と民族、国と国。お互いを理解し合い、話し合いながら生きていく時、また、戦をなくす努力を地球上のすべての人がする時に、平和がやってくるのではないでしょうか。

 私の古い手帳に記されている原爆に関するものを、記して終わりたいと思います。

◆ きのこ雲(昭和五十九年)
地面から湧き上るように
きのこ雲が もくもくと生えて
高く 高く 大きく 大きく のびてゆく 
その下で 幾万もの人々が
はだかにされ 皮膚までぬがされて
焼かれ 叫び 死んだ ことを
人よ 忘れないでほしい

◆ 黒い雨
黒い雨に うたれし父の 顔半分
黒く残りて 骨つぼに入る

◆ 水を下さい(昭和五十八年)
「水を、水を下さい」
と言う人達に 手もかさないで 私はあるいた
冷たい自分の心を苛みながら
トボトボと 行列にしたがって歩いた
黒く焼けただれた手を さし出して
通りすぎる人達に 助けを求めていた
そんな姿を 私は見ないようにして あるいた
トボトボと 鬼のような心で

三十八年の月日が経ったけれど
その人達の声が 聞こえてくる
「水、水を下さい」 
という声が

◆ 俳句
(昭和五十九年)
きのこ雲 阿鼻叫喚(あびきょうかん)の 地獄見ゆ
原爆忌 焼けただれたる 地獄目に
水求む 声今もなほ 原爆忌
涙して テレビ見てをり 平和祭
反核の 声高らかに 原爆忌

(昭和六十一年)チェルノブイリ
放射能の 洩れの気になる 梅入かな
原爆の 翳(かげ)ひきながら 半世紀
許さじと 思ひつまたも 原爆忌

(平成十年〜平成十六年)
きのこ雲 いのち幾万 奪ひたる
ピカドンと 云(い)う名も聞かず 原爆忌
語り部の 記憶うすれず 原爆忌
語り部の 役目果たさず 広島忌
悶々(もんもん)と 米を研ぎけり 原爆忌

 長い間、私は原爆のことを書き残しておかないと、また同じことが起こると思いつつ過ごしてまいりました。その機会を与えていただき、うれしく思っております。

 あれから六十年、私の記憶も薄れてまいりました。でも薄れたから冷静に書けたのかもしれません。当時は話していても涙が出て胸がつまり、途中で話せなくなったりしました。私の記憶違いがあるかもしれませんが、お許しください。

・・・七十九歳