english

ここから本文エリア

他の証言・資料 Others

《平和を祈る人たちへ》
阿鼻叫喚の地獄

小松 峯子(旧姓 小倉)
高女五十一回・専保一回、神奈川県川崎市在住

 終戦から六十年近く経ちました。こんなに長い日々を生きてきたのか、信じられない思いです。

 昭和十九年四月に専門学校に入学し授業を受ける毎日でしたが、二学期後半に尼崎の軍需工場へ学徒動員になり、寮に泊り込んで毎日航空計器の部品を作りました。度々空襲があり、機銃掃射におびえました。三月頃帰広しましたが、すぐに向洋(むかいなだ)の東洋工業(現マツダ)に動員されました。毎日油にまみれて小銃の部品を旋盤で作っていました。そして、あの忘れる事のできない日を迎えたのです。

 八時十五分、真赤な閃光(せんこう)と共に大音響がして、私たちは壁際まで飛ばされ、工場の窓は枠ごと吹き飛んでガラスは粉々になりました。何が起こったのか分かりませんでした。今思えば、この時に学校におられた先生、生徒の方々の尊い生命が失われたのです。

 帰宅途中は阿鼻叫喚の地獄とはこういうものかと思われる程の悲惨な光景でした。顔が二倍以上に紫色に膨れあがり、皮膚は身体中ずるりと剥(む)けて、ボロをまとった人々が山手の方へよろよろと歩いて行きます。男女の別も分からぬ程焼けただれた人々が黒々と横たわっています。川はたくさんの人で川面も見えない程です。

 翌日、被服廠(しょう)に動員されていた弟を探しに父と市内を歩き回りました。真黒に焦げてマネキンのようになった人々を、警防団の方がつるはしでゴロゴロ転がして一カ所に集めていました。火傷の傷口にハエがたかりウジ虫がうごめいている人。水、水と息絶えだえにつぶやく人。防火用水の中で赤ちゃんをしっかり抱いて息絶えている人・・・。今でも忘れることはできません。

 このような事態を起こす核兵器は絶対に使われてはなりません。一日も早く世界中が平和になりますよう願っています。

 最後に犠牲になられた方々のご冥福を祈ってやみません。

・・・七十八歳