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《平和を祈る人たちへ》
姉を捜し中心地へ

吉浦 紀子(旧姓 井手)
高女五十一回・専英二十四回、広島市中区在住

 原爆投下の朝、いつも通る広い道にさしかかった時に、どうしたことか、その朝に限って『今日は少し遠まわりでも、二筋向うの静かな細い道を通ろう』と急に変更して、少しばかり歩いた時に、頭上で「パツッ」と、何かはじけるようなかすかな音がしたので、咄嗟に指で耳と目を覆い、公共の建物に飛び込みました。しゃがんだ途端に外でものすごい音がしたので、家が壊れると思って外に出てみました。事務所の方たちも口々に、「空襲だね。大変だ。すぐに家に帰ってごらん」と言われ、息せき切って走って帰っていると、前にいた人が急に振り返って、「あんたもこの道を通って助かったんじゃね。向うの広い道を通った人は火傷で、血だらけで、吹き飛ばされて死んだ人もいるらしいよ。お互いこれから頑張らにゃーね」と元気づけられました。また、走りながら帰りを急いでいる時、あちこちで家が壊れて、泣きわめく声が聞こえてきて、恐ろしくてブルブル震えながら、やっとの思いでわが家にたどり着きました。

 家屋の一部が壊れていましたが、両親は元気で、私を迎えてくれました。そのうち姉(長女)が無事に帰ってきましたが、もう一人の姉(次女)はなかなか帰って来ないので捜しに行くことになりました。どうにか己斐(こい)駅の辺りまで行って広島市内を振り返って見ましたら、原爆投下のために建物などの姿もなく、そばで立ち話をしておられた方たちが、「ふっ飛んで何もないから広島駅まで丸見えだね。いつになったら電車が通るようになるか。ほんとに地獄だね」。この言葉を後にして、また姉を捜しに歩き出しました。

 中心地に近くなると、橋の上で何人もの方が、灰色のヨレヨレになった薄い布を、頭からかぶったり、あごの所や手先までそのような布を垂らして、ボーッと立っておられるのを、初めのうちは焼けた着物かと思っていましたら、歩いていくうちに、これは焼けた皮膚がはがれて、垂れ下がっているのだと気が付きました。もう涙が止まらず、しばらく放心状態でその場から離れることができませんでした。全く筆舌に尽くしがたい思いでした。その後、ずっと姉を捜し続けましたが、遂に帰らぬ人となってしまいました。

 悲しい日々を送りながら、私も大人の仲間入りができる年頃になりましたが、どうも体調が思わしくなく、病院で診断を受けた結果、骨髄液の検査から『白血球減少症』と『再生不良性貧血』で、原爆による症状なので、もうこれは食事でしか血を増やすことはできないので、今までよりずっと高蛋白質の食事にするようにと言われました。私は子どもの頃から大食でしたから、これ幸いとばかりよく食べ現在に至っておりますが、当時すぐに病院での治療が始まり、通院のため時間調整が大変だったことを憶えております。

 長年、原爆症で苦しい思いをしてきましたが、一つの大きな助けとなりましたことは、中学・高校で教壇に立ったことでした。毎日、どのクラスの生徒さんも、真面目で生き生きと授業にのぞむ姿に接し、私の命の続く限り全力で授業に専念しなければと思いました。多くの方々に支えられて今日まで生かしていただいたことを心から感謝しております。

 「七十五年ほどは住むことができない」といわれた広島が、今ではこのように活気のある街並みに変わり、平和な日々を送らせていただいております。しかし、原爆の犠牲になられた多くの方々の苦しみを決して忘れず、この体に刻み込んで生きていかなければならないと思っております 女学院の教職員・生徒を合わせて三百五十余名の方々のご冥福をお祈りいたします。次代を担う方々が私たちのような苦しい体験を二度とされないよう、世界平和のために努力していかれますように願っております。

・・・七十八歳