english

ここから本文エリア

他の証言・資料 Others

《平和を祈る人たちへ》
全身焼けただれた弟

佐長 頌子(旧姓 麦田)
専保一回、広島県福山市在住

 私たち広島女学院専門学校生は、学徒動員で八月も夏休みはなく通勤していた。あの朝も、私は広島市内の自宅から広島駅まで宇品(うじな)線で行き、山陽線上りの汽車で向洋(むかいなだ)駅まで行った。東洋工業(現マツダ)まで歩く。工場では兵器の鉄砲の部品を作っていた。午前八時に工場へ入り、これから仕事をという時、「ピカッー、ドーン」。その瞬間、作業台の下に潜り込んだ。工場の窓ガラスは皆割れ、窓近くにいた友人は顔にガラスの破片が刺さった。しばらくして、先生か工場の人の指示で工場の外に出た。広島の方の空を見ると、きのこ雲がモクモクと上がっていた。

 しばらくしたら、トラックに全身焼けただれた人たちが乗せられて来て、工場の中の床へ並べられた。私たち学生は手当をするように言われたが、医薬品も何もない。焼けただれた人は「水、水、水」と言うが、その当時は火傷をした人には水を飲ませてはいけないと言われていたので、水もあげられない。工場にある機械油を布に浸してペタペタと焼けただれた肌に塗ってあげるばかりだった。

 午後、家に帰るように言われ、向洋駅に行ってみたが、山陽線は走っていないという。友人たちとテクテク歩いて広島駅までたどり着く。何時間かかったか覚えていないが、まだ明るかった。市内は丸焼け、私の家は比治山東側にある現在の広大医学部の兵器廠(しょう)近くだったので、また歩いて帰る。家は焼けていなかったが、爆風で窓ガラスは皆割れ、畳も盛り上り、家具類もメチャメチャに倒れたりしていた。

 母がいないと思ったら、雑魚場町(ざこばちょう)辺りの建物を壊しに行っていた中学一年生の弟を捜しに出掛けていた。しばらくしたら、家の中へ全身焼けただれた少年が入ってくる。なんと弟ではないか。名前を言うので分かった。皆焼け焦げ、生きている学生だけ兵隊さんにトラックで兵器廠まで運ばれ床に寝かされたが、誰も何もしてもらえず、家の近くだと分かり歩いて帰ったと言う。母も比治山の西へは火災で入れず帰ってきた。

 弟は明くる日、午前三時頃、息を引き取った。私たち家族、母、私、妹(女学校四年)の三人は弟の遺骨を抱いて、八月九日頃、故郷(福山市芦田町)へ帰った。

・・・七十九歳