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《平和を祈る人たちへ》
学徒動員

大原 キミ(旧姓 西久保)
高女五十二回、神奈川県横浜市在住

 昭和十九年の春、高女部の五年になり最上級生になった喜びも束の間、六月に学徒動員で広の海軍工廠(しょう)へ行くことになりました。木造二階建ての寄宿舎で二階が女学院の生徒、一階が県立可部高女でした。県立だけあって規律のいいのにびっくり。のんびりして集合に時々遅れて、年を取った舎監が立ち台の上から「女子学習院の生徒は集まりが遅い」と怒鳴られて、「女子学習院だって?」とつつき合ってクスクス笑ったことも。

 工場の中で、旋盤でネジ切りする人と事務に分かれ、私は事務に回されました。一時間に一度工場の中を回って稼働している機械の台数を数え、稼働率を調べる仕事でした。その時初めて、手回しの計算器を使いました。一日を三直に分け、一直は午前八時から午後四時まで、二直は四時から夜中の十二時まで、三直は夜中の十二時から朝八時までの勤務で、お互いに引き継ぎをして帰ります。

 夜中に寄宿舎に帰る道は、戦時中ですから燈火管制で外灯などなく真っ暗。男の守衛さんが一人警護のためについてくれていましたが、途中から前の方に行ってしまうのです。四列縦隊で前に女子挺(てい)身隊、次が可部高女、最後尾が女学院の生徒が二十人くらい。その最もどんじりに私の部屋の四人組。暗闇でビクビクしながら歩いているのです。のそのそ話をしながら歩いていると、どうしても前列の人との間が空いてくるので、小走りに前に寄って行ったんです。すると、その前の人も一寸(ちょっと)走り、その前の人も・・・。前の方の人は後ろの人が走ってくるので、何かがあったと思ったんですね。小隊が一団になって寄宿舎の門めがけて走りました。女子挺身隊の隊長が「止まれ」「止まれ!」と叫んでいるのに聞かばこそ。門を入る時は守衛さんがいるので「歩調取れ!」の号令でダッツダッツダッツと兵隊さん並に足並み揃えて門を通り抜けるので、門近くになると列を整えることになっているのです。隊長さんは必死に叫んでいました。無事に門の中に入ったら、隊長さんが私たちの方を向いて「誰が走り出したんですか」と言っていましたが、ハアハアいいながらすました顔をしていました。思い出す度に、笑いがこみ上げてきます。

 終戦になり、二日目くらいに寄宿舎の裏の山に登り引率の西田敏子先生(だったと思います)と讃美歌一〇六番を歌ったことが忘れられない思い出です。讃美歌なんかおおっぴらに歌えなかった時代でしたから。

 本当は火傷で亡くなった弟のことを書くつもりでしたが、どうしても書けないんです。供養になるかもしれないからと書き始めても涙が先に出てきて手が震えて・・・。

 他に書きたいことはいろいろありますが、あえて笑ってしまうことを書きました。

・・・七十七歳