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《平和を祈る人たちへ》
下敷きとなった講堂から

鎌塚 寿恵子(旧姓 山根)
高女五二回・神奈川県川崎市在住

 今年も、また八月六日が訪れようとしている。夾竹桃(きょうちくとう)の赤い花が、灼けつくような夏の空を彩った暑い日を、今でも私は忘れることができない。

 昭和二十年八月、太平洋戦争は日毎に熾烈の度を極め、アメリカのB29による空襲は連日のように繰り返されていた。国内の大都市はほとんど焼土と化し、本土決戦は間近だという噂も飛び交うほど敗戦の色濃く、緊迫した日々が続いていた。国民は悲壮な覚悟を決め、それでもなお「勝利の日まで」との決意を胸に、懸命に頑張っていた。

 当時、私は十七歳の女子学生であった。前年の昭和十九年には学徒動員令が下って、男子学生はペンの代りに銃を執って戦場に出陣し、男女中学生(旧制)は、軍需兵器生産のために勇躍、軍需工場へ向かった。私たち女学校の生徒は、呉市にあった広海軍工廠(しょう)へ配属され、私は自分よりも大きな六尺旋盤を操作して、軍艦の部品を造る仕事に懸命に従事した。三月には、古今未曾有の『卒業式』が工場内で挙行された。私たちは、白鉢巻にモンペ姿で式にのぞみ、来賓として海軍の技術将校が、金モールの軍服姿で列席していたのも戦時下ならではのことであった。卒業後もそのまま四カ月余り、寮から工場への出勤が続けられ、「月月火水木金金」の軍隊と同様に休まず、まさに恪勤精励(かっきんせいれい)の日々であった。

 七月末になって突如、進学した者だけ帰校が許され、十数名の友と一緒に広島のわが家へ帰った。それは動員されて以来、約一年二カ月ぶりの帰郷であった。ようやく専門学校の生徒として通学を認められ、その後一週間は学生生活を楽しむことができた。午前中の講義を貴重な時間と思い、学生らしく真剣に学んだ。休憩時間には久しぶりに友と語らい、その喜びはたとえようもなく、皆活き活きしていた。そして、運命の八月六日を迎えた。

     見るも無惨な地獄絵図

 その日は、朝から雲一つなく、気温は早くも午前中に三十度を越す暑い日であった。広島女学院専門学校の百余名の生徒は、翌日から広島市郊外の向洋(むかいなだ)にある東洋工業(現マツダ)へ学徒動員で行くことになっていた。皆は講堂に集合し礼拝した後、編成替えのためそれぞれの学部別にホームルームに向かって退場し始めたその時だった。

 突然、目の前に青白い巨大な閃光(せんこう)が、火柱となって目を覆った。「アッ」と思う間もなく「ドーン」と、耳をつんざく轟音(ごうおん)と同時に、私は床にたたきつけられていた。そして、何か大きな物に抑えつけられたような感じがした。何分経っただろうか。いや、数秒であったのかもしれない・・・。

 一瞬、気を失っていたようであったが、息苦しさで我に返り、慌ててもがいてみると、手足も動くし頭も動いた。痛みはないが、何も見えなく真っ暗闇だけだった。一体、何が起きたのであろう。空襲警報は解除になっていたはずなのに・・・。混乱した頭の中で、「慌てるな。落ち着くのだ」と自分に言い聞かせ、じっと目を凝らして辺りを見ると、わずかに光が差し込んでいるのが見えた。砂ぼこりにむせながら苦しかったが、必死でもがき続け、ようやくそこへ這い寄った。それは、倒れたドアのすき間から洩れた外の光だった。

 下からドアを押し上げ、ようやく外に出ることができた。私は助かったのだ。這い出してみて、初めて校舎が倒壊し、講堂の下敷きになっていたことが分かったのだった。あちこちから、次々と傷ついた友人が飛び出して来る。どの顔も青ざめて声もない。血糊がべっとり髪に付き、すさまじい形相の人もいる。「お母さまあ」と泣きながら出て来た人もいて、皆呆然と突っ立ったまま、何が何だか分からない様子であった。

 周辺の街も一変していた。あちこちに垂れ下がった電線や、破壊された家の残骸が山のようになっていて、道路は足の踏み場もない状態であった。素足で歩くのは、大変危険だと、咄嗟に考えた。友人のほとんどは、上履を飛ばされて素足のままになったので、私は急いで押しつぶされた構内の下駄箱を探し、持てるだけの靴を抱えて戻って来た。こんな時に落ち着いていられる自分が、後で考えると不思議でならなかった。私は幸いにも、かすり傷一つ負っていなかった。

 かつて、呉市に動員で行っていた時、昼夜を分かたずB29重爆撃機の襲来を受け、空襲警報が鳴る度に、待避するため素早く身をかわして防空壕に走り込んだ。また、ある時は、避難が間に合わず、木造バラックの寮に機銃掃射を射ち込まれ、階段下にころげ込みながら、危うく命拾いした経験もあった。生死の分れ目を幾度となくくぐり抜けて来た強運からか、その時も私は傷を負わなかった。

 その日はいつものように、私と並んで十分前まで雑談した親友の姿は遂に見えず、後になって校舎の下敷きになったまま、亡くなっていたことが分かった。運命の分かれ目は、まさに紙一重の差であることを身をもって知った。

 混乱の中で、第一の避難所である泉邸(旧浅野藩別邸・縮景園)に、ひとまず逃げることにして、居合わせた学友と一緒に歩き出そうとした時、崩れた校舎の下から「お母さーん、助けてえーッ」という友人らしい叫び声が聞こえた。驚いてかけ寄ると、倒れた壁の下に誰か下敷きになっていた。それも一人ではない様子で、姿は見えないが多勢のうめき声も聞こえてきた。「何とかしなければ」と、その場にいた数人で力を合わせ、壁を持ち上げようとしたが、女の力ではビクともしない。「頑張ってね」と口々に声を掛けて励ましてはみたが、手のほどこしようもなく、私たちは焦るばかりであった。むなしく時が経っていった。途方に暮れているとき、頭から血を流し大怪我をされた松本卓夫院長先生が、通りかかられ、「あなたたちは無事でよかった。もうそこまで火が迫っているから、すぐ牛田山に逃げなさい。いいですね」と半ば叱りつけるようにおっしゃった。「もはやこれまで・・・」と思った私たちは、何度も後を振り返り「ごめんなさい」と心の中で詫びながら手を合わせその場を離れた。あの時の救いを求める絶叫が、今でも私の耳から離れない。

 大腿部を骨折したらしい友人が一人、歩けなくて座り込でいた。私よりずっと大柄な人だったが、何とか安全な所まで一緒に逃げようと思い、その人を半ば引きずるようにして、泉邸に逃れて行った。そこは、上流川町の閑静な住宅街の一部であった。いつもは、五分とかからない道程なのに、倒壊家屋の山や電線を避け、転がった木材を踏み分け踏み分けして歩くので、かなりの時間がかかった。

 逃げ惑う人々の異様な姿を、不思議に思ってよく見ると、衣服はほとんど着けていない。全裸に近い身体は一様に赤く膨れ上り、男女の区別もつかない姿。皮膚は厚くクルリと剥けて垂れ下がっていた。まるで破れ障子かボロ布をまとっているようであったが、その時の私にはこれがどういうことなのか、なぜこんな姿になっているのか分からなかった。「原子爆弾」による火傷であることは、後日知った。

 泉邸(縮景園)の庭は、避難した人々で埋め尽くされていた。その人たちは、「水、水、水をちょうだい。身体が熱い。水をかけてください」と一様に叫ぶ。瓦のかけらを拾って、水をくみに走ろうとしたが、「待てよ。今、水を上げたら、この人たちは死んでしまうのではないか」と、私は自問自答してためらった。他にも、「痛いよう。なんとかしてえーッ」と、苦しさから今にも狂わんばかりに泣き叫びながら川の方へ走って行く人、川岸まで来て力尽き倒れこんだまま亡くなった多くの人々、そこここに死体の山もできていた。

 「救護所はどこだ。医者はおらんのか」と男の人の怒号が飛ぶ。日頃から度々訓練し空襲には備えていたが、いざという時には何の役にも立っていないと思った。広島市内全域が破壊されていたわけで、救護活動も不可能なことであった。しかし、その時は誰もが自分のいる周囲にだけ、爆弾が投下されたと思い込んでいた。

 私たちの学校の近くに陸軍の西部第二部隊があって、大きな練兵場も東と西に二つもあるなど、広島市は古くから軍都といわれていた。ぞろぞろとよろめきながら避難する人たちの中には、多数の将兵も見られた。その人たちの頭には、鉄カブトの跡がくっきり残っていて、それ以外はほとんど火傷の状態で膨れていて、全く誰彼の区別がつかない顔に目ばかりがギラギラ光って見えた。幅広のベルトと将校の長靴、兵士のゲートルだけが身体に残っていたので、軍人だということが分かった。喉の渇きのため、通りがかりの壊れた家の庭に入り、まだ熟れていない青いトマトをもぎ取って、むさぼるようにかじりついた人もいた。水の代わりに喉を潤おしたのであろう。

 女子どもは、肉親を捜し求めて泣き叫び、火傷や大怪我の苦しみにのたうちまわる人々を目の前にして、「この世の地獄だ」と私は思った。やがて、市内は猛火に包まれ、炎は渦となってあらゆるものを焼き尽くし始めた。もう市街地へは、一歩も入ることはできない。「父母は無事だったのだろうか。姉や妹はどうしただろう」。急に安否が気になり、私は次第に心細くなってきた。

     黒い雨

 泉邸裏の川岸まで来た時、にわかに空が暗くなり、大粒の雨が降ってきた。ひとしきりたたきつけたが、なぜかそれは黒い色の雨で、白いブラウスは灰色に染まっていた。

 広島の川の中でも、流れの速いことで知られる泉邸裏の京橋川は、時として渦を巻くこともある魔の淵であった。その時は、ちょうど満潮時だったため、川幅いっぱいに増水していたが、橋のある所まで回り道する余裕もなく、躊躇しないですぐ川の中に入った。私は友人と二人で、川上から流れてきた一本の柱を拾い、つかまって泳ぎ始めた。途中、何度も流されそうになりながら必死で泳いで向こう岸にたどり着き、燃えさかっている火の街を、ただひたすら牛田山へと歩き続けた。岸に上って五分と経たないうちに、ずぶ濡れになった衣服は火勢ですっかり乾いてしまっていた。  

 牛田山には、学校の広大な敷地があり、修練場もあった。女学生時代には勉強の合間に、精神修養の場となったり、鍬(すき)を振るって野菜を作ったり、炭を焼いたりした。戦時中は、教師も生徒も力を合わせ、額に汗して食糧増産に励み、それは貴重な体験の場でもあった。牛田山に着いて、ホッとしたのも束の間、誰言うとなく「下の町から火が上がって来た」と伝わってきた。山火事に巻き込まれては、とても逃げきれないと思った時、学校からずっと行動を共にしてきたMさんが、広島市郊外の自分の家に「一緒に逃げよう」と誘ってくれた。私は自分の家がある市内から遠ざかるのはとても不安であったが、少しでも安全な所へと言われて同道することに決めた。当時、Mさん一家は芸備線の中深川(なかふかわ)という所に疎開しておられた。中深川に行くには、芸備線の汽車に乗らなければ行けないし、広島駅に出る道は、燃えていて危険だという。牛田山を越えるしかなかった。時計もなく時間が分からない。昼はもうとっくに過ぎていたように思う。

 Mさんと私、それにもう一人の友人Tさんと三人連れで、不案内な山道に入った。山をさまよいながら歩くこと数時間、いつの間にか道をそれていた。衣服は木の枝や萱(かや)などに引き裂かれ、身体のあちこちすり傷だらけになりながら、靴も脱げて裸足で歩いていた。朝からずっと何一つ口にしてはいなかったが、その時は空腹を感じることもなく、ただ逃げのびることに懸命であった。いつしか陽も暮れて、辺りが次第に暗くなり、不安と怖さで後を追われるように、だんだん足速やになって歩く。お互いに声を掛け合い、やっと戸坂(へさか)駅の小さな明りを見つけた時は心からホッとした。遠くの方で列車の汽笛が鳴る。乗り遅れたら大変とばかり、三人は一斉に走り出していた。

 三次(みよし)行きの汽車は、大勢の避難者でデッキまであふれていたが、私たちはなんとか乗り込むことができた。乗客のほとんどは怪我人で、床に身体を横たえており、かすかにうめき声も聞こえた。薄暗い車内は、むせかえるような暑さと、火傷でただれた皮膚の臭いであろうか、吐きたくなるような異臭が一面に漂っていた。

 中深川駅に着き、Mさんの案内で暗い夜道を転がるようにつまずきながら歩く。夜も七時を過ぎていたろうか、やっとのことでたどり着く。「よう無事で逃げられたね。大変だったろう」と、温く迎えてくださったご両親の言葉に、長い間緊張していた私たちは安堵と嬉しさで、堰をきったように抱き合って泣き続けた。学徒動員中からこの一年、空襲のない日は一日としてなかったが、まるでウソのようにその晩、私は初めて朝までぐっすり眠ることができた。

     黒焦げの死体が累々

 一夜明けて、「広島市内はまだ危険だし、自分があなたたちの家の様子を確かめてくるから・・・」とおっしゃったMさんの父上は、朝早く自転車を駆って出掛けて下さった。その間に裏を流れる小川のほとりで、汚れた衣服を洗濯しながらも、家族の安否が気掛かりで、時折り市内の方を見ては手が休んでしまう落ち着かない一日であった。夕暮れにMさんの父上が朗報を持ち帰ってくださった。

 私の家では、住居は焼失していたが、家族は全員難を逃れて無事だとのことだった。嬉しくてこみ上げてくる喜びに胸が熱くなったが、もう一人の友人の家族は消息不明とのことで落胆は大きく、私一人だけ喜ぶことはできなかった。静かな郊外のMさんの家で、ご厚意に甘えて二晩もお世話になった私は、すっかり元気を取り戻すと、一時も早く家族の顔が見たくなり、心はもうわが家へと飛んでいて、お礼の言葉もそこそこに足取り軽く市内のわが家へと向かった。中深川から矢賀駅までは列車で行き、そこから市内まで徒歩で行くことになった。

 市内に入ると、見渡す限り焼けの原になっているのには驚くばかりであった。広島駅前に立って西の方を見ると、己斐(こい)の山々がすぐそこに見える。街の中は、見慣れていた様子と違い、瓦礫(がれき)と灰の山に変っていて、市内全域が一望の下に見渡せた。遺骨が並んでいるように見える所は、学校か軍隊の跡であったのだろう。道々、黒焦げになった遺体も数しれず、爆心地となった相生橋(あいおいばし)に近づくにつれて、その数は多くなってゆく。それらの遺体は、同じように焼け焦げており、両手を上に頭をかばった形で、顔は苦痛に歪んでいた。一瞬にしてこのような姿に変わり果てた人々の無念さを思い、歩きながら私は余りの惨さに言いしれぬ怒りがこみ上げていた。

 水の都といわれた広島の七つの川(現在六本の川)に架かる橋は、大半が破壊されたり焼け落ちていて、私は焼け残った橋を探しながら、随分回り道をして歩いた。途中、天満町にある本家の辺りを通りかかると、焼け跡の片付けをしていた従兄弟に出会った。義兄も一緒で、被爆後はじめて身内の者に会った私は、こみ上げる感情を抑え切れず、思わず泣き出してしまった。

 ようやく小河内町(おがわちまち)のわが家の焼け跡に着く。あの朝出掛けた時の家は、見る影もなく完全に灰燼(かいじん)と帰して形も何もなく、しばらく呆然と立ち尽くす私であった。父の工場の御影石の大きな門柱だけが倒れることなく建っていて、唯一わが家の跡である標となっていた。  「お母さん、ただいま」。思わず大声で呼んでみた。母と姉が防空壕から飛び出して来た。「あんたは、生きて逃げられたとは思えなかったよ。よう無事で助かったね」と、母は顔をくしゃくしゃにして泣いて無事を喜んでくれた。

 私の父は、普段ならわが家の事務所に出勤している時間であり、爆風で西側に倒れた建物の下に押しつぶされていたであろう。しかし、その日は福山に出張のため朝早く出掛け、山陽本線の本郷駅の辺りで閃光を見たという。仕事を終え、急ぎ引き返したものの、広島市内には入ることができず、一夜を近郊で明かし、翌日、焼け跡に帰ったそうである。通り道に転がっている女の子の遺体を見る度に、もしや娘ではないかと、一体ずつ確かめながら帰ってきたという。爆心地近くの、ほぼ一キロメートルの所にあった学校にいた私が、よもや助かって元気でいるとは・・・。思ってもみなかったそうである。

 家では、母が廊下の掃除をしていて、倒れた家の隙間に身体がはまり込み、運よく命拾いしていた。姉も妹も、家で被爆したが軽い怪我で事なきを得た。当時の広島では、家族が揃って無事だったということは、余程の幸運であり、皆から羨ましがられたものである。材木関係で軍の下請け企業だった父の工場は三日間も燃え続け、地下室には炭の山ができた。私が帰った時も、まだ火がくすぶっていた。しかし、肉親では叔母が二人爆死している。一人は爆心地に近く、家の下敷きとなって死に、もう一人はいったん逃れ出ていながら、足の骨折で歩くことができず炎に巻かれたらしいと聞いた。その叔母は、どこで亡くなったものか、いまだに遺骨も見つかっていない。戦後に姉と結婚した義兄は、水主町(かこまち)で被爆し、身体に無数のガラスの破片が突き刺さり瀕死の重傷を負ったが、奇跡的に命を取り留めた。まだ何カ所か、「ガラスが入ったままだ」と話してくれていたが、病気がちで何度も入退院を繰り返し、とうとう四十六歳の若さで癌に侵されて亡くなってしまった。

 爆心地に近い町では、一家全滅という家も多かった。郊外の田舎に疎開先を見つけて、子どもや老人を預け、「私は身軽だし、いつでも逃げられる」と笑って話していた人が被爆死してしまい、幼い子どもと荷物だけ残されたという家庭も多かった。

 私の母校では、多数の犠牲者が出た。市内の建物疎開に奉仕作業していた後輩と引率の先生は全員亡くなったということであった。たった一発で、二十万とも二十五万ともいわれる犠牲者が出た広島市であった。

     原因不明だった突然死

 それから間もなく、終戦の日を迎えた。ラジオもない防空壕生活をしていた私たちは、敗戦の報を翌日になって知った。被爆した知人や怪我人を多数預かっていた生活で多忙だったため衝撃はなかった。むしろ「ああこれで空襲もなくなるし、逃げ惑うこともないのだ」と、敗れた悔しさよりもただホッとしたというのが実感であった。

 八月十五日を期に空襲はピタリと止み、サイレンのけたたましい響きもなくなったほか、夜空に光っていた無気味なサーチライトも消えて、静かな夜がよみがえった。廃墟となった広島に平和が訪れた。しかし、戦後の混乱は日本国中どこも同じで、飢えと疲労の中で人々の心はすさんでいた。広島でも、傷を癒すこともできないまま、亡くなる人が続いた。また、怪我もしなかった元気な人が、ある日突然発熱し、原因不明の下痢を繰り返して衰弱していった。歯ぐきから出血し、髪が抜け落ちて丸坊主になった人も多くいた。焼け残った木の陰やビルの中で、家族の名を呼びながら苦しみ続けて亡くなる人もいた。近郊の都市に逃れた人や、収容所に助けられた人も、薬や包帯が十分でなく満足な手当ても受けられなかったと聞いた。私の家の工場でも、何体かの遺体を葬った。燃え残りの木を積み重ね、その上に焼けトタンを載せるだけの火葬であった。青白い炎が立ち上るのを、じっと見ていたことを今でも思い出す。

 やがて、焼け跡に、寄せ集めたトタンで囲った小屋やバラックが建ち始め、避難先から人々が町へ帰ってきた。急造の家からはろうそくの灯りが洩れるようになり、時には笑い声さえ聞かれる日もあり、貧しくても少しずつ生気を取り戻してきた。

 私たちは、防空壕生活を三カ月余り続けたが、家がなくても父母がおり、姉妹も欠けることなく、ただ一人の兄も無事に復員した。若さもあって怖いものは何もなかった。家族と力を合わせて小さな家を建てるときも、女の手で金槌を使い、板を運んだり鉋(かんな)で柱を削ったこともあった。通りかかった駐留軍の兵士がジープを止めてもの珍しそうに見ていたが、当時としては決して不思議な光景ではなかった。

     原爆忘るまじ

 「七十年間は草木も生えない」といわれた広島市であったが、多数の市民を失ったにも かかわらず、終戦後に目覚しい復興を見せた。世界で最初の被爆都市として、注目されていたし、残された市民の心が一つとなって街を興せと立ち上がったからであった。

 翌年の春には、あちこちで青草の芽がいぶき、焼け残った大木の根元からも柔らかな新しい枝が伸びて、再び緑がよみがえった時は本当にうれしかった。山も川も、戦争前と少しも変らない姿になり、季節ごとに風情を変えて、生きている喜びを私たちに与えてくれた。平和であることの有り難さ、尊さは、戦争を体験した者しか分からないことかも知れない。戦後半世紀近くを振り返り、また核問題を考える度に、広島の惨状を語り継がねばならないと思うこの頃である。被爆の後遺症に苦しむ人は、高齢化した今なお、増え続けている。私もいつ発病するかの恐怖がいつも頭から消えることはない。

 あの日、一緒に逃れて助かった友人が、後遺症で一人また一人と、五十代の若さで相次いで亡くなった。学徒動員中は、凍てつく夜の勤務に耐え、流れる汗をぬぐう間もなく生産に勤しみ、原爆では九死に一生を得た私たちである。まだまだ若くして亡くなるとは、さぞや心残りであったろうと今も胸が痛む。

 後年、被爆二十五年の記念日に、やっと母校を訪れる機会を得た。あの日逃れた牛田山修練場の地は、立派な女子大学となり、山道は整備されてバスも乗り入れていると聞いた。その自然に恵まれた環境は昔のままで、緑に囲まれた素晴らしいキャンパスの校庭に立って、私は時の流れに万感の思いを抱いた。

 毎年、八月六日になると、私はなぜかじっとしていられない気持ちになる。広島に住んでいた頃は、どこかへ逃げ出したい思いにかられていた。年老いた現在は、テレビで放映される平和祈念式典の中継に、くぎ付けになったように見入り、犠牲となられた多くの人々を偲び、平和の鐘の音と共に静かにただ祈っている。戦争のない平和なこの時代がいつまでも続くことを願いながら・・・。

・・・七十七歳