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《平和を祈る人たちへ》
放心状態で過ごした数日

北川 房子(旧姓 作花)
高女五十二回、神奈川県小田原市在住

 広島に原子爆弾が投下された日。今ならば夏休み中ですが、戦争中は夏休みはなかったのです。一カ月のうちの何日間も、軍需工場に学生も作業に行き、旋盤などの機械を使って小銃の部品などを作らされていたのです・・・。

 ―― たまたま八月六日は登校日。八時十五分には朝礼で全校生徒が講堂に集まっていた時間でした。その時、「ピカドン」。あの原爆が投下されたのです。全員校舎の下敷きに。気が付くと口の中は砂がいっぱい。うめき声も聞こえます。隙間から空が見えたので、這い出しました。でも、大きな柱の下敷きになっている友は出られません。手を引っ張ってあげても駄目。そのうち火の手があがりました。その時兵隊さんが来て、「君たち早く逃げなさい。僕たちが助けるから」。泣きながら友人を置いて縮景園へと逃げました。そして、縮景園の裏から川に出ました。でも、川の橋は皆落ちているので、川の中を泳いで対岸に渡り、広い空き地のある広場に逃げたのです。――

 これは数年前に亡くなった私の同級生の体験談です。実は私も本当はこの友人と同じ所にいるはずだったのですが、寄宿舎生だった私は数日前から微熱が続いたので、校医の先生に診断書を書いてもらい一週間の休みをもらって実家に帰っていたのです。その一週間の間にあのすごいピカドン、原爆が落ちたのです。新聞には、何十年も草も生えないだろうなどと書かれていて、驚きもし、誰にも連絡も取れないので、放心状態で数日を過ごした私です。

 現在の大学のある牛田の土地には野菜などを植えていました。学校の農場だったのです。戦後、女学院は、被害のなかった牛田山にバラックを建て昭和二十一年四月から授業が再開されましたが、校舎は狭いので専門部と高女部が一日おきに授業をしたのです。寄宿舎生は、今の牛田山荘を数部屋に区切って、先生方、専門部、女学部の人達が生活を始めました。廊下にコンロを置き、一人一人が自炊です。食料のない時です。一日おきの休みの日には近くの農家にお芋などを分けてもらいに歩きました。牛田山荘からバラックの校舎までは今とは違い細い獣道のような寂しい道で、一人で歩くのは怖かったです。

 現在は立派な大学の校舎が出来ましたね。作業、作業で、ほとんど勉強などしないで卒業した私たちの学年ですが、今も生き残っている同級生は、皆とても仲良しです。戦友? という感じでしょうか。

・・・七十七歳