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《平和を祈る人たちへ》
生かされた命を大切に

田部 恂子(旧姓 大島)
高女五十二回・専被二回、広島市南区在住

 あの日は、今の広島女学院高校の所(現在の上幟町(かみのぼりちょう))にあった当時の女学院専門学校にいました。入学して一週間ほどだったと思います。朝から空襲警報が鳴ったので、いつもより家を出るのが遅れ、友人の桑原さんを誘って登校し、一緒に講堂の後ろの方の席で朝の礼拝に出たのを覚えています。

 礼拝を終え、真っ先に廊下に出て、時計が午前八時十五分を指しているのを見ました。その瞬間、強い光を感じ、思わず近くにいた桑原さんと抱き合いました。

 その後のことは、何がなんだか分からず、覚えていません。桑原さんともそれっきりです。気が付いたら校舎の下敷きでした。下敷きになりながら、普段、学校で習っていた避難方法で「目を押さえ、耳を押さえ、口を開けて」をしたように思います。這い出したときには、周囲は火の海でした。どのように這い出てどう逃げたのかも、覚えていません。衝撃で左まぶたと左手が切れていました。血が流れて目に入り、目が見えませんでした。途中、出会った沼辺さんに道端の手押しポンプの水で顔を洗っていただいたのです。その沼辺さんとも、どこでどう別れたのか記憶がありません。

 火を避けて、必死で縮景園に逃げました。途中、国語教師の島津武子先生に出会い、東裏側の猿猴川(えんこうがわ)沿いに左右から迫り来る炎を避けて、先生と二人、小さくなって震えていました。残念ながら、その後の先生のご様子も、しばらくの間分かりませんでした。川にはたくさんの怪我した人がもだえ、うめき、叫び、また、亡くなられた人たちのたくさんの死体が流れ出た瓦礫(がれき)と一緒に水面を行き来する光景はまさに阿鼻叫喚(あびきょうかん)です。

 夕方くらいまで、そこにいたのでしょうか。死体を乗せた救護船が近づき、泳げない私は助けていただいて対岸に渡りました。船から見る風景も地獄のようでした。家が燃え二階の窓から助けを求める女性が声と共に火に飲まれ、家ごと崩れていきました。大火傷で手の皮がぶら下がった人もたくさんいました。

 船を下りると「恂ちゃん、恂ちゃん」と私を呼ぶ声がします。振り向いたけど、知った人はいないんです。しかし、また歩いていると、女の子が名前を呼びます。その子は「花本の○子よ」と絞るような声で言います。見れば、鼻の上の方が切れ、取れてぶら下がっていて誰だか分からなかったのです。近所の遊び仲間だったのですね。今では見ることもできないような恐ろしい顔でした。でも、あの時はみんなそうだったので、怖くも感じなかったのです。その子を東練兵場の救護所に預けて、私は宇品線上をたどり大河(おおこう)の自宅に向かって一生懸命歩きました。幸い当時バスケットをしていた私は、あの日も編み上げ靴を履いていたので脱げることもなく、くすぶり続ける焼け跡も熱く感じることなく歩けたのです。

 自宅に近づいたのはもう夜でした。途中、花本さん宅に寄り救護所での様子を説明し、やっとやっとわが家にたどり着いたのです。家とは名のみで、外枠だけ残り、家財はすべて飛び散っていました。そこには姉夫婦、そばにはなぜか母が横たわり、一言もしゃべってくれませんでした。

 爆心地から一キロメートルの学校にいた私は、亡くなっているものだと家族は思っていました。義兄は、私を捜し歩いたそうです。水を求めて、防火水槽に頭を突っ込んで亡くなっている私と同じ年頃の女の子を、恂子ではないかと引っ張り出しては見たそうです。

 当時、年上の兄や姉は既に皆、家を出ていて、実家には両親と末っ子の私だけでした。父は観音の三菱造船で被爆し、建物疎開作業に出掛けていた母は鶴見橋で、背後から熱線を浴び、大火傷をしていました。首筋からかかとまで焼けただれていました。義兄が軍隊にいたため、翌日には軍医と衛生兵が自宅に来て、母の治療をして下さいました。耳にすると気持ち悪いでしょうけれども、当時は傷口にすぐにウジ虫がわいたのです。ウジ虫がわかないように輸血が必要でしたが、すぐ不足となりました。衛生兵さんのお話では、戦地では兵隊さんは馬血も使用しますとのこと。「いかがですか」と聞かれ、わらにもすがる気持ちで馬の血を輸血してもらいました。それしか救う方法がなかったのです。

 その後も、火傷には人骨を塗ると良いと聞き、私は大河小学校に行き、校庭に穴を掘って火葬された方のご遺骨の一部を拾ってすりつぶし、母の背中に塗りました。怖さも何も感じなくなっていました。小麦粉がよいと言われると、今度は小麦粉を塗りました。そんな風に母の看病に明け暮れる日々でした。私もしばらくして下痢をしたり、頭髪が抜けたりしましたが、自分のことどころではなかったのです。放射能に汚染された広島市内を歩き回ってたくさん有毒なガスを吸った父は、原爆から一年後の八月にあっけなく亡くなりました。

 当時、軍の兵舎であった一部を病室としていて、母はそこに収容された後、米軍の寝台車で大竹の海軍病院に移送されました。伏せたままの母は、前方に見える一面焼け野原の広島を初めて自分の目で見て、何度も何度も「あーあっ」とつぶやき涙しました。気丈な母のあの哀れな姿、決して忘れ得ぬ敗戦の証として私は持ち続けるでしょう。

 母は大竹の病院を一年あまりで退院し、畑仕事も始めていました。ところが、被爆後三年ほどしてから、毎日毎日、吐き始めたのです。吐くたびにピンク色の生きた回虫が出るんです。十センチも十五センチもある回虫を洗面器いっぱいに吐きました。後から考えると、あの時、馬の血を輸血したせいではないでしょうか。毎日何度も何度も吐いて、一九五十年七月、苦しみながら亡くなりました。今思い出しても、母の体中をむしばんだ回虫は気持ち悪かったです。でも、あの時、母が生きるためにはそうするしかありませんでした。感謝こそしても、誰も責める訳にはいきません。輸血のおかげで母は生き延びられたのですから。あの頃は、自分の苦しさより、母の看病をしているときの辛さの方が大きかったのです。

 私は原爆で両親を亡くしましたが、女学院に通っていたおかげで、戦後も救援物資を受けられ助けられました。マクミラン先生からもたくさん喜びを与えていただきました。不思議と原爆を落としたアメリカ人に憎さなんてありませんでした。今では考えられない辛い惨めなことも、何もない戦時中は仕方なかったのです。生きるためにしなくてはならないことばかりでした。心もすさんでいたのですね。でも、女学院で聖書を読み、神という存在がすぐそばに感じられましたから。辛い経験があったからこそ、今は何でも我慢できます。被爆後の経験は、私を人間として強くしてくれたと思っています。早くから親を失った幼い私は、当時はお墓参りばかりしていたんですよ。

 これまで他人に自分の被爆体験を語ることはありませんでした。若い人たちに、辛い経験を話すのは押しつけがましく聞こえるだろうし、避けられるのではないかと思って・・・。思い出すのが嫌だったわけではありません。

 おととし、横浜に住む同窓生のご家族が、被爆者健康手帳取得のための証人を捜していることを知りました。その方は、あの日、血を流していた私の顔を洗って下さった恩人でした。忘れることのなかったあの沼辺さんでした。その証明をさせていただいたのが縁で、少しずつ他人にも体験を話すようになりました。

 あれからもう六十年なんて信じられません。ここまで、いろんな病気もしました。今は甲状腺の腫瘍も抱えています。やはり歳を重ねるごとに、原爆の影響ではないかと不安になることもあります。

 今、若い人たちに伝えたいのは、やはり戦争だけはやめてほしいと言うことです。だって戦争でなくても人を憎むのは嫌でしょう。あの戦時中、分かりもせずに私たちはアメリカ人を憎み、さげすむ歌を歌って防空壕に避難していたんですよ。戦争をしても何もいいことはありません。一人ひとりの人間は敵ではないんです。隣人が仲良くして、優しい心を忘れずに、生かしてもらっていることに感謝して、助け合って生きていくのみです。

 ・・・七十六歳

聞き取り・森田裕美(高校四十五回)