english

ここから本文エリア

他の証言・資料 Others

《平和を祈る人たちへ》
神のご加護のおかげで

野邊 英子(旧姓 藤原)
高女五十二回・東京都調布市在住

 八月六日朝、警戒警報解除となり安心して登校する。それが鉄砲町のわが家からの最後の出発となった。当時、専門部に入学したものの、学徒動員で工場で働いていた。しかし、八月一日に登校の許可が下り、勉強することになっていた。礼拝が終わり、ピアノ演奏を聴きながら教室へ向かう途中、「ガスの炎」のような青い光の中を右往左往する人の姿が見えた。その途端、金槌で頭を殴られたような衝撃を受け、気を失った。

 ハッと気が付くと建物の下敷きになっていて身動きできず、周りを見ると顔中血だらけの人、「お母さん、お母さん」と呼ぶ人。一瞬、何が起きたのか分からず、愕然とした。みんな口々に「しっかりして」と大声で叫んでいた。ふと見ると、体が出られるくらいの穴から太陽の光が差し込んでいた。必死の思いで穴から地上に這い出たが、一面、家屋がそのまま地上に押しつぶされていた。塀をつたい歩き、電信柱にすがりつき、ようやく道路へ降りた。そのうち、「早く逃げろ」という声に我に返り、縮景園の方へ歩く。みんな、ボーとして黙って歩く。

 「この家の下に子どもがいるから助けて!」。誰もおし黙ったまま、無言で歩き続けた。そのうち「火が出たぞ」「早く歩け」と誰かが叫ぶ。人の波に押されながらようやく白島町の太田川の土手に逃げ込んだ。土手の前の家屋も燃え出し、炎が迫ってくる。ぞくぞくと怪我人が運ばれてきた。手の皮が剥(む)けて垂れ下がっている人、背中が「ざくろ」のように裂けている人。川原は大勢の人でいっぱいになった。「そこの女学生、手伝いしろ」。兵隊さんに言われ、怪我人の世話をした。自分自身も耳の後ろから血どろが出てきて首も回らなくなった。顔が膨れ上がり、「熱い」「熱い」と泣いている人、川に入りそのまま流されて行ったいった人達・・・。幸い、親友と一緒だったので心強かった。

 川原で一晩野宿する。市内が赤々と燃えている。まるで巨大な焚き火のようだ。その中で幾重にも人間と分かる形が積み重なっているのが見えた。翌日、家族の安否も分からず、友人と二人で市内のわが家へ行く。焼け野原で誰もいない。コンクリートのごみ箱が残っていたので、瓦のかけらで「英子元気」と書いておく。猫一匹いない。道端には炭になった親子の遺体があり、母が子どもを自分の懐に抱いている。また、水槽に逆さまになって、ゆでだこのようにピンク色をして死んでいる人も・・・。

 行き場所もなく、友人の親戚がある田舎へ歩いて行く。十キロメートルぐらいの所だったと思う。その地の小学校にも大勢の怪我人がいた。顔が焼けて膨れ上がっている。「水を下さい」「水を下さい」と小さな声で言っている。この世の修羅場である。ようやく我に返り、不安と疲れでぐったりと寝入った。身寄りもいないし、これからどうすればよいのかと思った。一週間ぐらいして芸備線が開通したので、かねて家族で打ち合わせていた高田郡吉田町の知人の家へ行くと、家族は全員無事で私だけが見つからず、心配していたと泣いて喜んでくれた。家族全員が助かりホッとしたのも束の間だった。

 原子爆弾がもたらした不幸はそれにとどまらなかったのだ。父方の郷里である島根県へ引き揚げたが、原爆症状が現れ、十日間で父、母、妹が次々と死んで行った。髪の毛が抜け、外見は元気そうだったのに、放射能によって体内は目茶目茶だった。

 私は世にも恐ろしい原爆を受けたが、神のご加護のおかげで今日まで生きることができ、本当に感謝している。

・・・七十六歳