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《平和を祈る人たちへ》
きのこ雲の下で

野村 久子(旧姓 高橋)
高女五十二回・専保二回、広島県佐伯郡在住

 毎晩のように空襲警報のサイレンが鳴り、徐々に敗戦の闇に向かいつつある混沌とした時代だった。

 広島女学院高等女学校の五年生と四年生は、同時に卒業式を迎えた。私たち四年生で卒業した者は、そのまま東洋工業(現マツダ)で銃を造る者、専門学校に進学する者、第二総軍司令部の通信部隊に所属する者と、当時十五歳と十六歳の同期生は、それぞれの所で懸命に活動をしてきた。

 八月六日の朝、十日市の電停で己斐(こい)行きの電車を長い間待っていたが、空襲警報が解除になって、やっと電車が来た。満員電車のぎゅうぎゅう詰めに乗って土橋辺りに来た時、一瞬、オレンジ色の閃光(せんこう)がピカッ! と空を覆うと同時に、「ドッガーン」と大炸裂が起こり、電車も吹き飛ばされたかに感じられた。電車を飛び降り、無気味な轟音(ごうおん)と真っ暗闇の中を逃げ惑っていると、一年生らしい女生徒たちが焼けただれた皮膚を手の先にぶら下げて、「兵隊さん助けてー」と口々に言いながら兵隊さんを取り囲んでいたが、その兵隊さんも焼けただれ、なす術もなく、「よしよし」と言うのが精いっぱいのようだった。

 一瞬にして暗闇となったそこは、まさに生き地獄の様相となり変っていたのである。着ている物はボロボロになり、着衣が焼け皮膚が焼け、半分裸の状態で、騒然たる状況だった。上がり始めた火の手を避けながら、瓦礫(がれき)の上を人々に交じって逃げた。火の粉を逃れるために川を渡り始めた時、「アメリカのヤツ」「アメリカのヤツ」と声がしたので振り返ると、国民学校三年生位の女の子が、赤ちゃんを背負って私の後ろを付いて来ていた。「お母さんは?」「お母さんとおばあちゃんは、家の下敷きなってね。この子と一緒に五日市のおばさんの家に行きんさい言うたんよ」。三人は川を渡り切って、女の子と赤ちゃんは五日市の方へ、私は己斐の山を目指し、赤ちゃんをおんぶした女の子を案じながら、別れた。

 己斐の中腹あたりから黒い雨が降り始めた。農家の納屋で雨宿りをしている人たちに出会い、私も濡れて寒くなった体を筵(むしろ)で巻いていたが、そのうち吐き気に襲われ始め、ここで倒れては二度と家に帰ることはできないと、帰心を奮い起こして疎開先の長束(ながつか)に帰るべく山越えをして歩きに歩いた。

 長束の土手の辺りから、藁(わら)屋根農家の藁の部分だけが焼けたのか、梁(はり)と柱と家財だけが残っている不思議な光景を目にしながら、ボロボロのモンペ姿で炎天下の土手を歩いた。「お母ちゃん!」「あっ! 久子が帰って来た!」「今からあんたを捜しに行くところだったんよ」。母と姉に抱きかかえられて畳に寝かせてもらった。私を捜しに行くために、なけなしの米で麦飯のむすびを作っている最中だったのである。母がおむすびとお茶を寝ている所に持って来てくれたが、お茶は飲めたが、残念ながらおむすびは喉を通らなかった。夜になって、竹藪(たけやぶ)のはるか向こうの広島市内が真っ赤に燃え上がっていた。真赤な炎と熱風と人の焼ける臭いとで、まんじりともしないで一夜を明かした。

 「うちの子はとうとう帰って来んかったんよ」。同級生の櫛山さんのお母さんとみんなで一緒に泣いた。夕方近く、隣の農家に、「納屋で少しの間休ませて下さい」と全身火傷の通りすがりの娘さんが入って来られた。「水を下さい。水を下さい」と言うけれど、火傷には水をあげれないので、キュウリの輪切りを体に張り付けてあげたり、母もわが家と納屋の間を忙しく動き回っていた。火傷を負った娘さんは、村人の看護の甲斐もなく朝方息を引き取られた。

 吐き気、下痢、食欲不振と、その上、髪の毛が抜け始めて不安が重なった。

 市内の火の手が収まった頃、姉と二人で、東平塚町のわが家の様子を見に出掛けた。焼け野原の町には、人の焼ける臭いが充満し、川にはたくさんの死体が浮かんでいた。相生橋(あいおいばし)の西詰めまで来た時、中学一年生くらいの男子生徒八人が、しっかりと手をつなぎ、うつぶせの輪になって死んでいる姿に、名前を呼び合ってここに息絶えたのだろうか、と想像しながら立ち尽くした。 

 紙屋町、八丁堀辺りには、茶色に焼け膨れた人や馬の死体が、無惨な姿で転がり、さながら阿鼻地獄の様相だった。銀行の石段に腰を下ろし真っ裸の全身から血がにじみ出しているお母さんが、赤ちゃんにお乳を飲ませている姿を見た時、その崇高な姿に声を掛けることもできなかった。帰りには必ず声をかけようと思ったが、その時には姿も見えなかった。焼け転がった馬や人の屍に突き当たり、またぎながら、わが家に近づいたが、焼野が原だった。

 「お宅の家は火柱を上げながら焼けました。隣のお年寄りはだんだんに火が燃え移ってくるのを見て、家の中に入ったきり出て来られませんでした」。私たちを見つけた近所の人が涙ながらに話をされた。

 紙屋町の辺りを帰っていると、見知らぬ男の人が、「相生橋の電信柱にアメリカ人をくくりつけてみんなが石を投げよるよ。あんたも行ってみんさい」 と大声で叫んだ。私たちも急ぎ駆け付けたが、アメリカ人も石を持った人たちも見当たらなかった。アメリカ人に出会わなくてよかった。私がもしその場に居合わせたら、みんなと一緒に石を投げていただろうか、それとも石を投げている人をやめさせることができただろうか・・・。このことを思い出す度に、涙せずにはいられないのである。

 戦争とは何と無惨なことであろうか。一瞬の原爆の炸裂で二十万人もの人たちが死んだとも言われている。原爆で生き残った人間の一人として声を大にして言い残したい。核戦争に勝者はありえない。あるのは人類の破滅のみであり、また、核の脅威の下では人類の未来はありえない。核廃絶と平和への祈りがあるのみである。情勢不安の現代、核廃絶の願いを新たにしている。

         荊冠(けいかん)のドームが墓標原爆忌  久子         

    ・・・七十六歳