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《平和を祈る人たちへ》
七日間の友人Nさんに会いたい

宮井 カスミ(旧姓 川手)
高女五十二回・専被二回、広島市安芸区在住

 被爆六十周年を目前に、やっと体験を書く気持ちになりました。

 時が経つのがあまりに早かったような気がします。長い年月をただ漠然と過ごしたわけではありませんが、結果的には何もできませんでした。今考えてみると元気で溌剌(はつらつ)と過ごした時は、少なかったような気がします。

 戦争中は、学徒動員として、女学校三年生の時から軍需工場で働き、授業は週一日登校するありさまでした。昭和二十年八月六日に、専門部に入学して一週間目の運命のあの日、希望に燃えて各学校から集まった若き女学生の多くは、八時の礼拝後、講堂を出た瞬間、八時十五分、一発の原子爆弾で一瞬の内に命を失ってしまいました。

 今では、「ピカドン」という言葉で表現されていますが、私には「ピカ」としか記憶にありません。ピカッと閃光(せんこう)が走って目が見えなくなり、その瞬間、近くにいた学友が重なり合って、三階建ての講堂の下敷きになりました。それからどのくらいの時間が過ぎたのでしょうか。静寂とでもいうのか、音のない空間でした。

 その後、耳の後ろから頬にかけてピシューという音と共に、風のようなものが吹き付けて意識を取り戻しました。皆、下敷きになったまま声を出さない、音のない瞬間でした。それから崩れた材木が、ミシミシと音をたてて、体に押し付けてくる恐怖に襲われました。私と話しながら歩いていたNさんが、一人だけ建物の外に飛び出ていて、大声で「誰かいるの」と叫んでいました。下敷きになっている者が大声で助けを求めたので、Nさんが一人また一人と、建物の下から助け出しました。

 その時、いち早く学生の所に来てくださった、松本卓夫院長先生と松下績雄先生から、牛田山に逃げるように言われ、何が起きたのか分からないままに、高い塀を飛び下りて、火の手を避けながら、一目散に走って走って、やっと緑の木のある場所にたどり着きました。どこをどう走ったか記憶にありませんが、その場所は、意外にも学校のすぐそばの縮景園の中でした。多くの被爆者が夢遊病者のごとく火傷や怪我をして、どこをどのようにして歩いて来たのか不思議なありさまの中、誰一人不満も不平も口にせず、大雨が降ってもただ時の流れを待っているように、静かに座っていました。対岸の火事を見ながら、呆然としていました。とにかく自宅の方向に向かって帰れる所まで帰ろうと、学友とそれぞれに別れを告げました。

 終戦後、学校から招集があり、Nさんも復帰して来るものと待っていましたが、卒業の日まで姿を現してくれませんでした。後日、被爆後、間もなく亡くなったと聞きました。爆風で吹き飛ばされて、放射線を大量に浴びていたのでしょう。残念です。下敷きになった時の恐怖は、背中の痛みと閉塞感は、時が経っても忘れられません。Nさんに会って、もう一度おしゃべりがしたかった。生きていらっしゃれば、私と同じ年で、老いても心の友として、共に生きていたであろうと、日々心の中で手を合わせています。

 歳を重ねて、運命の一瞬の体験を私なりに記録に残すことができたような気がします。

 平和の日々に感謝しています。

・・・七十七歳