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《平和を祈る人たちへ》
南段原のプラットホームで

金谷 慶子(旧姓 篠原)
専被二回、広島市東区在住

 八月六日の記憶は、六十年経った今でも克明です。あまりに辛い出来事でしたので、これまでめったに人に話したりいたしませんでした。しかしながら、今、自分自身の体験をもう一度思い起こし、世界平和の祈りを込めて書きます。

 私は山口県豊浦郡菊川町で酒造業を営む家の娘として、生を受けました。そして県立長府高等女学校で学びました。戦争末期の学生は軍需工場に動員され、私も神戸製鋼所長府工場で働きました。三月の卒業式は、途中で空襲警報により中断され、午後からまた式が行われました。広島に住む母方の叔父の元から、広島女学院専門学校に通うことに決め、入学式を楽しみにしていました。が、戦争たけなわで、学生はおのおのの動員先で勤務を続けるようにとの指示が出されました。

 待っていた女学院での入学式は、七月三十日に行われました。翌日から、被服科は松原静江先生のご指導で、これから先に行く東洋工業(現マツダ)で着用する制服の製図を学びました。私は作る布地がなくて困り、実家の母に電話で相談しました。母は列車の切符が取れて、祖父の木綿の黒紋付とお米一斗を持って来てくれました。学校に行き、松原先生に見ていただき、黒紋付で作製することに決まり、母も私も安心しました。

 八月五日、朝礼後、牛田山にある女学院の修練道場で歓迎会が開かれました。牛田山の麓からデコボコ道の坂を登り詰めた所に建つ平屋が、修練道場です。私たち新入生は大広間に円形に座り、自己紹介の後、茶菓子を頂き、ゲームを楽しみました。これは忘れられない楽しい思い出です。その晩、一晩中空襲警報でほとんど眠れなかったのと、お腹を壊していたため、いつもの列車に乗り遅れました。

 叔父の家は段原山崎町にあり、宇品線の南段原停留所を利用していました。その日は、明日から動員で行く東洋工業の結団式が行われるため、遅れても学校に行かなくてはと思い、南段原停留所のプラットホームで次の列車を待っていました。空から飛行機の音が聞こえるので、敵機か空軍機か空を見上げたその瞬間、すさまじい光と爆風が襲い、私はホームから飛ばされていました。すぐホームの下に伏せました。その前に建っている小屋が燃え上がり、辺りは暗くなり、私の周辺に爆弾が落ちたと思いました。母のいる叔父の家に急いで帰りました。

 母も二階で木材が倒れかかりひどい様子でしたが、元気でいてくれました。広島高等工業醸造科に通っていました兄も同郷出身の友人を連れ、叔父の家に帰って来ました。母がこのままこの場所にはいられないと言い、四人で持てる物と食糧、母持参の焼いたかき餅、水筒を持って、比治山の裏道を西の方へと歩きました。途中、たくさんの負傷者が向洋方面に向かって来るので、中心地には行けないと思いました。御幸橋付近の土手には、たくさんの瀕死の重傷者が横たわり、「水を・・・」と言って、苦しんでいました。その声は今でも耳に焼き付いています。

 川下に渡し舟があることを聞き、その舟に乗り、向う岸にたどり着きました。また歩き、舟に乗せてもらい、己斐(こい)の土手に着いた時は、薄暗くなっていました。海岸沿いの国道は、多くの人や車が往来していました。振り返ると東の広島の空は真っ赤で、そのさまは非常に不気味でした。歩き通しで五日市駅にたどり着いた時は、夜の十時半頃でした。折り返し運転の下関行きの列車が、十二時半に出るとのことで、それに乗り小月(おづき)駅に着いたのは朝の六時頃でした。駅では広島に新型爆弾が投下されたとのことを話しているのが聞こえました。

 ようやく家へ帰り着き、祖母が額や目の辺りの火傷を見て、柿渋を塗ってくれました。自然に癒えるまで皮を取らないように言い、私を励ましてくれました。髪の毛のチリジリは、自然にしなやかになりました。

 帰郷後、四日目の朝、小月駅から広島まで列車が行くとの知らせで、兄とその友人と私の三人で、列車に乗り広島へ向かいました。己斐駅を過ぎ、横川辺りの車窓から、焼け野が原になった市内が見えました。ビルの外郭が、所々にあり、なんともひどい様子でした。

広島駅ホームに降り立つと、駅舎は外郭だけでした。歩いて段原に向かいました。大正橋の川岸には、遺体が浮かんでいるのが見え、多くの犠牲者が出たことを思い知らされました。叔父たち一家は、徳山市郊外にある母の実家に引き揚げていました。隣家の夫人は、近くの中学校のグランドでは、毎晩トラックで多くの遺体が運ばれて来て遺体を焼いていること、御主人が行方不明で方々の収容所を探し回っていることを語られていました。

 九月中旬頃、学校より再開の通知を受けて広島へ来ました。校舎は牛田国民学校を借りて、午後から女学院が使用していました。中学部と隔日に教室を利用したように記憶しています。牛田山にトタン屋根のバラック校舎が出来ましたが、窓ガラスもないものでした。机と椅子は江田島の兵学校に舟でもらいに行きました。海軍士官さんの学んだ机で勉強できると喜んだものです。

 牛田山校舎も、短大、大学となり、次々に新しい建物が建ち、慰霊碑も出来ました。毎年八月六日には祈念式が行われ、私も参加させていただいております。ある年の慰霊式で、高女部の先生をしていらっしゃった方が、専門学校の校舎の解体の折、白骨が十七体整然と残っていたことを話されていました。また、遺族の方の家に作製した製図が今も残っていると語られていました。

 原爆当日は講堂で礼拝が終わり、起立した瞬間に爆弾が投下されたそうです。入口近くにいた人、窓側にいた人は、縮景園に逃げましたが、そこに火の手が迫り、裏側の川縁で舟を見つけ、乗り、岸へ着いたという話を聞きました。中ほどにいた人は、天井が落下して下敷きとなり、出られなかったことも聞きました。

 私も隣席で仲良くなった三原出身の谷口冨美枝さんのことを案じておりました。慰霊碑が牛田山から現在の上幟町校地に移されて名簿が刻まれるとのことで、学校にお尋ねの手紙を出しました。遺族の連絡先を教えていただき、冨美枝さんのお兄様とお会いしました。ご本人の写真を見て全く私の案じていました冨美枝さんでした。原爆投下後、お母様と弟さんが三原より来広し、方々の収容所を捜し回られたそうです。戦争で四人の男子は無事復員したのに、日本にいた妹一人が亡くなりましたと話されていました。

 入学後四、五日で、友人の名前も顔も覚えておりません。遠くより女学院に来て、原子爆弾に遭って命を落とされた方の無念さは、いかばかりかと感じます。その後、女学院の二次募集で入学なさった方も多く、また何らかの事情で退学された人もあり、原爆投下の日に在学しており卒業まで一緒だった方は数少ないと思います。私はあの日のあの時刻、学校に出ておりましたら、今日はなかったことと思います。

 亡くなられた方のご冥福をお祈りし、今日生かされていることを神に深く感謝いたします。私が体験したこの悲惨な戦争は、二度と起こしてはいけないことです。

 平和祈念式には今後もお参りさせていただきます。

・・・七十六歳