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《平和を祈る人たちへ》
友の叫びは今も耳に

小清水 光子(旧姓 田中)
専被二回、北海道苫小牧市在住

 八月六日、当時私は十七歳。専門学校経済科一年に在学し、岩国より通学しておりました。その朝は晴天に恵まれ、抜けるような空の碧(あお)さが広がっていました。

 普段は学校で決められた黒の長袖の服を着て通学するのですが、この朝に限って、今思っても不思議な気持ちですが、半袖の薄紫のユニホームで登校しました。後になってみますと、黒の服でなかったから私は火傷から救われたのではないかと思います。広島駅一つ手前の横川を出て間もなく空襲に遭(あ)い、汽車が一時停止し、少し遅れて登校しました。この時の空襲が、原爆を落とす前の広島上空の下見だったということです。

 学校ではすでに朝会が始まっていて、チャペル(朝会のこと)に出席する人と教室で待っている人に分かれました。私はチャペルに出席し、一番最後列の人となりました。従って講堂から出るのも一番早く、すでに廊下の折れ曲がった角まで来ていました。(講堂の中の人は鉄筋コンクリートの下敷きとなり、中に残っていた学友はほとんどが即死、焼死の状態でした)。 その時、青赤いような稲妻のごとき閃光(せんこう)が前を通り抜けました。「あ! 何の光かしら」とそう言ったまでは覚えております。

 気が付きましたら家屋の下敷きとなって、梁(はり)の下に倒れていました。「助けて、助けて」と泣き叫ぶ声が聞こえてきます。爆弾に直撃されたのかしら、一瞬そう思いました。私の横にいて、今まで元気だった友は梁の下敷きとなり、すでに亡くなり、その方の血を私は浴びていました。私自身も頭、ひじに傷を負っていました。

 逃げなくてはいけない。真っ暗闇の中をもがきながよじ登りましたら、屋根の外に出ることができました。講堂も校舎もペッシャンコとなり、すでに火の手があちらこちらから上がっておりました。講堂の方からの火の手は一段と大きくなっていました。教室に残っている友は校舎の下敷きとなって、机に挟まって、火の手が回って来ても逃げられず、生き地獄です。「助けて! 助けて!」と助けを求める友を助けたくて努力しましたが、私の力ではびくとも動きません。奇跡的に助かって逃げて行く人に応援を求めましたが、友の体は机に挟まって抜けません。友は「私の足を切り落としてください。助けてください」。死の叫び声です。四方八方から火の手は次第に大きくなり、倒れている友に近づいて来ます。「足を切って助けて!」。必死の友の叫びは今も耳に残っています。私は友に「ごめんね。助けられなくてごめんね」。やっとこれだけ言えました。叫び続けていた友は一言の声も発せず、それっきり何も言わなくなりました。私は逃げるに逃げられず、必死に友を助けようとしました。

 ちょうどそこに、男の先生が走って来られました。私は必死で「先生、先生」と叫びました。先生は気付いてくださり、走って来られました。「先生、お友達が挟まっているの。助けてあげたいけど、足が抜けないの」。先生は「君は逃げなさい。早く」。その声に我に返って、私は先生に友を頼み逃げました。頭から指先まで血だらけの女の先生が倒れておられました。私は先生を助け起こし、一緒に浅野泉邸(縮景園)まで逃げました。泉邸はすでに人でいっぱいでしたが、何とか先生を座らせることができました。

 泉邸は怪我をした人、焼けただれた人、すでにここに来て動けなくなった人、人、人。この世の地獄絵です。防火用水に頭を突っ込み死んでいる人、倒れてすでに死んでいる母親にすがりつく乳飲み子、焼けている電車の中に取り残されている人。転がっている死体を飛び越えて、やっと火の手のない川原にたどり着きました。近くに広島工兵隊があり、そこで被爆した兵隊さんたちがゴロゴロと倒れていました。鉄カブトの所だけ髪が残り、あとは丸焼け。真っ黒くなって腫れ上がり、鉄カブトの跡がなければ男女の区別もできないほどです。それでも生きていて、虫の息です。

 ゴロゴロとした石や砂の上に倒れている人、人、人。すでに息絶えている人。川原はこれらの人でいっぱいです。やっと口のきける人は、自分の名前と住所を教えて「連絡してください。お願いします」と。何人かにこう頼まれました。必死な思いで自分を知らせる。こうした人たちのことを思い出し、忘れることができず、胸のふさがる気持ちでいっぱいです。発狂した兵隊さんが「お母さん、お母さん」「天皇陛下バンザイ」と叫びながら倒れてゆく姿をたくさん見ました。向かいの神社の老松がメラメラと燃え出し、対岸にいる人たちも熱さを覚えました。

 細い声で「水、水」と求める人、焼けただれて手の皮が剥(む)けてちょうどゴム手袋をはめてぶら下げているような手の人など、平和な現在では想像もできない光景です。歩ける元気な方々、四、五人で川をさかのぼり、ひたすら逃げました。大きなカボチャ一つを抱いて逃げる人、牛を引いて町に向かって逃げる人、皆、気が変になっているのです。工兵隊の前を通りかかりますと、真っ黒く大の字になって焼け死んだ兵隊が道路にいっぱいです。この方々に「ごめんなさい。ごめんなさい」と言いつつ、またいで通り越したのです。また、下肥を入れる桶の中に、死んでいる二人の子どもを前後に一人ずつ入れて、天秤棒で担いで歩いているお母さんの姿もありました。

 このように書けば数限りがありません。途中、救急所で傷の手当てを受け、一口の水も飲まず、少しでも遠くへと四、五時間歩き続けました。船に乗せていただき、川を渡り、途中で聞きました広島県立第一高等女学校の寮にたどり着き、お世話になりました。畑に実っているキュウリをごちそうになりました。朝から何も口にしてない私たちにとって、このキュウリの甘さが喉にしみ、とてもおいしく大変うれしかったことを今もはっきりと覚えています。

 二日後、皆と別れて岩国に帰るべく、教わった道を川に沿って一日中歩き続けました。その川に人の死体が浮いて流れて行くのです。牛も流れて行きました。思考力も何もかもなくなっている私は、ただ呆然と眺めているだけでした。夕方、やっと横川駅にたどり着きました。ちょうど運良く、今日初めての被災列車が出ると聞き、乗せてもらいました。二両の列車、立ったままがやっとの状態で被爆者がいっぱいでした。これでやっと帰れると思った瞬間、気が遠くなり倒れてしまいました。しばらくすると外のホームで、倒れた人は外に出してくださいという大きな声が聞こえてきました。周りの人たちが「大丈夫ですか。起きられますか」と声を掛けてくださいました。それでやっと自分に気が付き、元に戻りました。

 二時間かかって家に帰りました。家では仏さまにお灯明が立てられて、私の写真が飾ってありました。三日目になっても帰らないし、広島は全滅と聞いていたので、死んだのではと思ったそうです。私を見るなり母は「幽霊ではない。手もある、足もある。光子だ」と母や姉妹たちの喜びの顔。怪我こそしていても、生きて帰れたことの神様への感謝とさまざまな思いがこみ上げてきました。父はすでに私を探しに広島に出向いていました。

 何の話であれ、大抵実際より話の方が大きくなるものですが、原爆に限り、どんなにどんなに大きく言っても、現実の大きさ程には決して表現できません。言い換えれば、原爆は、無惨で恐ろしくて、どんな目的と理由があろうと決して許すことのできない、再び使ってはいけない恐ろしい凶器なのです。人の心も体も、すべての人類を、世界を滅ぼす原爆です。世界から絶滅しなくてはなりません。声を大にして世界に訴えなければなりません。

   追伸

 三カ月後、学校の跡に参りました。すべて灰となり、コンクリートの校門が一つ焼け残っておりました。四千度という火の玉によって一瞬のうちに亡くなられました多くの諸先生、お友達の方々のご冥福を心からお祈り申し上げました。

 後日、私にも原爆症が出て闘病生活を続けましたが、元気にならせていただき、現在に至っております。ありがとうございました。

・・・七十七歳