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《平和を祈る人たちへ》
礼拝堂の椅子の間から

水野 潔子(旧姓 平岩)
専保二回会友、東京都武蔵野市在住

 年月の過ぎ去るのは早く、今年は日本の国が第二次世界大戦に敗れ六十年の歳月を送った年である。と同時に、私が広島女学院専門学校に入学を許可されてからも同期日が過ぎたということにもなる。

     再登録せず学籍失い、学友として許可されるまで

 被爆してから過ぎること五十余年、二、三年前までは、広島女学院に学籍がないことも知らないで、「私は広島で被爆しました。場所は広島女学院専門学校の三階の建物の一階礼拝堂の中です」と多くの方々にそう語ってきた。被爆直後から原爆症が現れ、その診察と治療のため、その年の十月の半ばに上京した。その時は、学籍の再登録が必要だとは夢にも思っていなかった。身体の調子も良くなり、私も兄弟と一緒に東京に住むことになり、十一月四日、当時の松本卓夫院長先生の紹介で青山学院女子専門学校に転入学をした。

 後日、原爆手帳を取得するため、証人二人とその時に在学していた学校の証明書を求められて、初めて学籍がないことを知った。在籍を認めてもらえなかったが、その時は公平な回答であると思った。しかし、年月を経てよく考えると、あの八月六日に女学院に在籍していなかったら、女学院のあの場所で被爆したことにはならないと気が付き、せめて通学したという自覚だけでも持ちたいと思い、知人である高野美和子さん(高女五十四回)の紹介で、東京支部に申し込みをさせていただいたところ、快くメンバーとして迎え入れてくださった。そして平成十三年の「夏雲の集い」に初めて参加することができた。

 その席上で先輩の方々から昔の女学院での話や、被爆体験などを伺い、私も被爆時のことや、入学したが再登録せずに学籍を失い、学籍復活は不可能だった話をさせていただいた。その時いらした前院長の西恵三先生の「在籍復活の手続きを再度試みたらどうですか」とのお言葉に勇気づけられ、早速その手続きをした結果、学友として認めていただける運びとなった。その時、お世話になった西垣二一院長、および事務長の方々に御礼を申し上げたい。その「夏雲の集い」で初めてお会いした同級生と、コンクリートの崩壊した中で苦しかった話を共有できたこと、半世紀過ぎての話だが、夢の中の不思議な出来事のように感じた。この「夏雲の集い」は、私にとって忘れることができない一日となった。

       「あの光は何だ!」

 六十年前のことを思い出すのは、高齢になってからは難儀なはずだが、どうしてかあの時の閃光(せんこう)は脳裏からぬぐい去れない。あの日、礼拝が終わり、後奏の途中で退場しようとしていたと思う。私はまだ礼拝堂の椅子の間にいた。

 「バクウー」という変なものすごい光、礼拝堂がその光により膨れ上がった感じがした途端、天井の壁が崩れ落ちてきた。口の中が粘っこくなる光線だった。コンクリートの塊と砂がバンバン降ってくる。このままだと生き埋めになってしまうと思ったが、身動きもできない。口の中は砂とごみでジャリジャリ、砂で埋まってしまっても、手の平を丸くして口に当てて、この手の平の中だけは空気を残しておきたかった。気が付くと真っ暗闇、一時は騒然とした同級生の叫びも静かになった。私も少々あきらめの気持ちで落ち着いてきた。皆も同じであろうか。

 どれくらいの時が経ったか分からないが、頭上に穴が開き外の光が見えた。しかし、鉄骨が格子になり外部に出ることはできない。またしばらくすると、壁が崩れ穴の形も違ってきた。よく見ると、その鉄の格子が崩れ脱出できそうな穴を見つけたが、そこは私の背丈の数倍もある所だ。その頃、私は小柄だが運動能力はあったので、急に勇気が出てきた。「脱出できる!」と思った。しかし、私の心の中に「皆で協力して、一人の行動ではなく」という声が聞こえた気がした。今になって思うと神の声だったのかも知れない。その穴からは、生きている人数人が心を合わせたから脱出できたと思う。

 顔から血が出ている人、もう気力がなくなる寸前の人もいた。穴から外へ出てびっくり、鉄筋校舎で丈夫だと思っていた建物も横倒れになっていた。倒れて坂になっていた外壁を穴から一緒に出た友人の肩を支えて下りかけたところで、印具徹先生にお会いした。「どうしたんでしょうか」「何も分かりませんね」との会話は覚えている。先生も傷付いた生徒を抱えていらした。さて私はこれからどこへ行こう。

 四月に入学し、七月の末まで女学校の動員先で仕事を続けるよう、お上(今でいう政府でしょうか)からの命令があった。しかし、八月一日から一週間は、女学院校舎で勉強をするという矢先の出来事であった。そして、非常事態が起こった時は女学院生はすぐ前にある泉邸(縮景園)に避難をすることになっていたのに、私は妹の疎開先に荷物を届けに行っていたためそのことを知らないで、泉邸には行かず一人だけ別行動をとった。

     「火が出たら風下へ逃げろ!」

 そんな常識が私の脳裏をかすめた。専門部の近辺は瓦礫(がれき)の山と大勢の人が右往左往していた。やはり火の手が上がりそうな気配がした。混雑の中、火の手が上がったので風下へと歩いた。どの方向に歩いたかはよく分からないが、電車道に出た。その道路は小学校の友人宅へ行く道で白島行きの電車道と分かった。電柱は折れ、電線は垂れ下がっていた。ふと見ると逓(てい)信病院の門柱が見えた。その前をあまり大勢ではないが、ボロボロになった洋服に髪は逆立ち、手の皮や上半身の皮が剥(む)けた人、大八車に何やら荷物を載せた人の一団がゾロゾロ歩いて来た。どうやら川に向かっているような気がしたので、私も一緒に歩いた。

 常盤橋の川下の川原に着いた。そこはもうあふれんばかりの人で埋まっていた。上着はなく赤肌になった兵隊さんと思われる大人が、砂の上で痛さのためのた打ち回っていた。「水、水を下さい」という人が大勢いた。「火傷をしている人には水をやるな。死ぬぞ!」と言っている人もいた。川べりの人家で野菜を育て鶏を飼っていた人は、皆盗まれていたようだった。まるで地獄の修羅場だと思った。

 そのうちに、何か飛行機の爆音みたいな音がした。「みんな木陰に入れ」「白い洋服を着ている女学院生は隠れろー」と言う人もいた。そして、「川が満ちるぞー」「川原の州がなくなるぞー」との声を耳にしてそこを去ることにした。その頃には、川には火傷をした人が水を求めて川に落ち込み、水に浮いている人が増してきた気がした。少々川下をみると、その昔は泉邸の裏の川の深みのある所では馬を洗っていた人がいたものだが、その時とは打って変わり、多くの人が亡くなり浮いていたことを書き留めておく。対岸の饒津(にぎつ)神社の森に火の手が上がっていた。

 私は、避難する所を、泉邸でもなく、牛田山の修練道場でもなく、一週間前まで、通い慣れた女学校の動員先である川内村の学校ミシン工場に決め、常盤橋下の川原に別れを告げた。

     避難先を決めた。しばし記憶も消えた

 常盤橋のた袂(たもと)の川原を後にして、可部(かべ)線にある川内村方面に行こうと思った。途中では小学校の木造の校舎が崩壊し、道をふさいでいた。たぶん白島小学校だなと思った。その辺りから私の記憶があいまいになっているように覚えている。多くの人の無惨な死に方や無惨な傷の様子を見て、若かった私は、自分の気持ちが持ち堪えられなかったのではないかと今にして思う。長い間、京橋川の饒津(にぎつ)神社側の土手を上流に向かって歩いて川内村に行ったと思っていた。しかし、その記憶もあいまいで、そのことを考えると不安が募ったこともあった。

 しばらく年を経て、西南学院から女学院に入学された(八月五日の被爆前日に到着された)山下(現姓 小川)美佐子さんが原爆手帳取得のため証人探しをされた時、平岩の私の旧姓を覚えておられ、その頃のことを話すチャンスが与えられた。その小川さんの話により、私の記憶のあいまいであったところが解明されたのだ。常盤橋の袂の川原から小川さんと一緒だったこと。三篠(みささ)橋を渡り、横川から祇園を通り、川内村の広島第一県女の動員先にたどり着いたことなどを知ることができた。小川さんが靴をなくされ、裸足で歩かれていたのを、私が片方あげて一足ずつ履いて歩いた記憶も一致した。記憶から抜け落ちたところが分かり、小川さんと再会できたことを感謝している。小川さんは次の日、開通した可部線に乗り、苦労して福岡の自宅へ戻られたと聞いた。

     市内は焼野原 家族の避難先は

 私は、数日の間、県女の修練道場でお世話になり、開通した可部線に乗って横川駅に出た。横川から焼け野原の中、死体がある所をよけながら、姉の動員先である糧秣廠(りょうまつしょう)の分省が間借りしている己斐(こい)国民学校へ行ってみたが、もう解散して誰の姿もなかった。それから千田町の広島文理大(現広島大)の父の研究室を覗いてみた。実験動物の飼育箱の金網がからみ合っていた。火の勢いの物凄さを思った。窓辺にタイプライターのキーが焼けて寂しさを感じた。大学の建物の中は静寂そのものだった。大学から、私の家まで約八百メートル。宝町四〇七番地へ行った。

 どうなっているか、見るのが恐ろしかった。家に入る二段の石段に、焼けぼっくいで「牛田の沢野源四郎宅へ行く」と書かれた字が目に入った。涙も枯れていた私も、涙で目が霞んだ。焼け落ちたわが家をあまり長く眺めていると日のあるうちに牛田に着かないので、すぐに立ち去って牛田に向かった。

       母の死が判明、私も原爆症発病

 父は自宅の崩壊の際、家の下敷きになり半身不随になったが、入院治療の結果、歩行可能になり仕事に復帰することができた。広島女学院大学の講義にも参加させていただいたと聞いている。姉、兄、妹は無事であったが、母が生死不明であった。その日は建物疎開の奉仕のため早朝から出掛けていたのだ。しかし、とうとう九月十七日の枕崎台風の後で洗い出され発見された。即死であったと思う。衣服や下駄の鼻緒(私が作成したものだったので)で母であることが判明した。場所は宝町三八七番地辺りだったと思う。十一月三日、自宅玄関先で兄と姉により火葬にした。私は被爆数日後から、原爆症になり血便多量で一カ月くらい歩行困難となり、治療のため十月の末に上京して東大病院に受診した。白血球三千、被爆直後は、予測では千にまで落ちていたと思うという医師の言葉であった。しかし、六十年経った今では元気に生活している。

     現在の私

 学窓を出て有職婦人として何とか仕事を続け、七、八年前、定年を迎えた。その間、結婚し二女を与えられた。今は、ボランティアとして時々高齢の方々と共に過ごしている。その傍ら、あのような戦争が二度と起こらないように平和のためにお役に立ちたく、時折、集会やデモに参加している。何をさておいても平和憲法を守っていきたいと思う昨今である。

・・・七十七歳