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《平和を祈る人たちへ》
新聞が伝えた「廣島に殺人光線か?」

渡邉 道子(旧姓 衛藤)
専保二回、大分県竹田市在住

 あの朝もギラギラした太陽が輝いていました。

 昭和二十年八月六日、当時私は十六歳、広島女学院専門学校の一年生。入学して三日目、広島市上流川町にある学校の講堂にいました。

 空襲警報解除になりひと安心して寮から学校へ。朝礼が終わり起立して出掛けようとした時です。「ピカッ」と閃光(せんこう)がし、「バリバリバリ」と、まるで雷が百も千も落ちたような音がして、思わず横っちょへ目と耳を押さえてしゃがみ込みました。さあ何秒だったでしょうか。「助けて、先生!」といろんな声が聞こえてきました。目を開けると、もうもうとした灰燼(かいじん)の中に大きな梁(はり)が斜めにあり、その先に空が見えたのです。火事場の馬鹿力というのでしょうか、それをよじ登りヒョイと首を出すとそこは屋根の途中だったのです。そのままズルズルと滑り下り、塀の上から「トン」と落ちた、いや下りた所は学校の門の道でした。出てきた友達(入学して三日目だったので知っているのはわずか二、三人だったのですが)を確認し、先生を捜し、どこへ行けばいいかを尋ねました。「牛田山道場へ」という答えを聞く頃には火の手があちこちから出てきていました。そこへ行く道を知っていると言った級友に付いて、十人くらい一緒に、ほとんど駆け足で走り始めました。

 途中どこを通ったのか、あちこちの木、家、電車、全て燃えている中、私たちと同じように走っている人々も。ある人は焼けただれた服を着て、ある人は体中を火傷して顔の皮がぺロンと剥(む)けているのです。でも、怖くなかったのです。「大変だ。大きな爆弾が落ちたんだ」と思い思い走りました。川端に出ました。水たまりで同じような人をたくさん見ました。兵隊が鉄船を漕いできて、「女、子どもが先だ」と言いました。向こう岸へ着きました。そこは牛田の近くだったのです。道場は山の上でしたが誰もおらず心細く思っていたのですが、市内に住んでいる級友が「家に帰る」と言い出したので、また歩き出しました。牛田山を越え「可部(かべ)」という町へ。昼過ぎにはどこかの国民学校で証明書とおにぎりを頂き、また歩き出しました。半日歩いて「己斐(こい)」という町へ。電車道をたどって草津町出身の級友の家へたどり着いたのはもう日が暮れてからでした。

 翌日の新聞には「広島に殺人光線か?」という大見出しが出ていましたが、例によって「我が方の損害軽微なり」と。

 十月、学校より再開の通知がありました。しばらくして登校しました。バラックのトタン屋根。机、腰掛けは兵学校のお古。雨が降れば先生の声はよく聞けないというありさまでした。それにも増して驚いたことは、学校中で三角帽子をかぶっている人たちの多かったことです。よく聞くと、髪がほとんど抜けて、今生え変わっているとのこと。暇々にクラスの人たちから聞くことは、「家中で生き残ったのは私と父の二人だけ」とか、「燃えている炎の中から火だるまの人が飛び出して、川のそばでバッタリ倒れたのを見た」とか、「死んだ人が多くて火葬場が間に合わず、市内の公園は全部それになってしまった」とか、聞くも無惨な話ばかりでした。その後、廃墟から立ち上がった広島で、私は昭和二十二年まで学生生活を送ったのです。

 駅から八丁堀まで焼野原だった広島の街も、今日では思い出すものは一つもないような繁栄ぶりですが、その後多くの方々が後遺症に苦しみながら「過ちは二度と繰り返しませんから」と誓っているのは私とて同じです。

 戦後六十年、振り返ってみれば私どもの幼少女時代はずっと戦争の日々でした。人生で一番輝いていた年代を戦争に奪われてしまったわけです。戦争中、私どもが教えられていたことは何だったのでしょうか。「聖戦」といい、勉強もしないで「学徒動員」に行き、「討ちてしやまむ」と言っていたことは人を殺すことだと後になって分かりました。卒業後、私は教員になり、「平和の尊さ」を語る立場になりましたが、被害者であると同時に加害者であることも語らねばならなくなりました。若い人たちに「平和」とは何かを語ることは難しいと思います。今またその歩みが始まろうとしていることを恐れています。

・・・七十六歳