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《平和を祈る人たちへ》
ホームに残った友人と一生の別れ

重富 照子(旧姓 佐伯)
高女五十三回、東京都渋谷区在住

 あれからもう六十年、今初めてその日のことについて筆を執る。振り返ればまだ女学生十六歳、人生の蕾の季節であった。毎朝四時半起床、五時二十分には家を出て駅までの道程三十分を歩く。小さな西岩国駅も大勢の学生や通勤客で賑々しく混雑していた。蒸気機関車の黒い煤が飛んでくる窓を開け、いつものように仲良し四人組の席を取る。物はなくとも動員学徒として青春のひとこまを元気溌剌(はつらつ)と過ごしていたのだ。今こそ広島まで電車で四十分だが、当時は一時間半かかる汽車だった。昭和二十年八月ともなれば戦禍も各地に及んでいた。しかし、幸いにして広島は爆撃もなく炎天の続く日々だった。私たちは鉄道局で国のためにと働き続けていたのである。

 六日の朝も、広島駅に着く前に車中で警戒警報。またすぐ空襲警報になった。警報が出たら学徒は家へ帰れる。内心、国のためとは言いながらも家に帰れることはうれしかった。ところが、広島駅で下車し、折り返して岩国方面の汽車に乗るつもりでいたら、空襲はもちろん警戒警報もみんな解除になってしまった。友達同士「残念でした」と笑いながら、ホームに出る。そこで呉方面から来る学友に出会った。「おはよう!」。互いに言葉を交しながら、外に出て徒歩で勤務先に向かう。その時、呉の友人たちは電車で行くと言ってホームに残った。それがついに一生の別れになろうとは。爆風で青春を花と散らしたのである。

 私たちは外に出て炎天下を歩いていた。と、まさに一瞬の出来事だった。パッと光。焼けつく熱さ。轟(ごう)! うなりを立てる黒煙。何も見えない。死んだと思った。黒煙の中をただ前方に無我夢中で走る。気がついた時は、両隣一緒に歩いていた友の姿は消えていた。防空頭巾に火が点いて煙が出ている。慌てて叩いても周囲の熱さのせいでくすぶり続ける。防火用水につけ、ビショビショのままかぶってさ迷い歩く。両手を見ると、皮がドロドロに剥(む)けて真っ黒。モンペの他は焼けてなくなっていた。が、笑う者もなかった。生き地獄とはこのことだ。

 今、日本は平和な国だとつくづく思う。私たちの若き時代は戦争という名の黒い流れに呑み込まれ、多くの尊い命が犠牲になった。子育てを終えた私にとっては、今、これからが青春なのだ。自然を愛し、人を愛し、俳句を愛し、心から生きる喜びを満喫している。

・・・七十六歳