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《平和を祈る人たちへ》
忘れえぬ日

河本 和子(旧姓 藤川)
高女五十四回、神奈川県横浜市在住

 一年ぐらい前から学徒動員勤労奉仕で、東洋工業(現マツダ)へ出勤。小銃の小さな部品を作っていました。当日は、朝七時過ぎに警戒警報発令。B29爆撃機のキーンという聞きなれた音を耳にしました。しばらくして解除。八時前の列車に乗るため、急いで広島駅に向かいました。

 私の生家は広島市鉄砲町三十六番地、現在の白島線女学院前の電停近くです。運良く向洋(むかいなだ)駅に着き、当時、第七工場で働いていましたので、グループ毎に並んで工場に入ったものです。仕事を始める前に、友人二、三人と工場の裏にある水飲み場に出ました。そこで再びB29の音を聞いたので、上空を見回し捜していたところ、突然、広島市内の方向でピカッと光り、何だろうと思っている間に、見る見るうちに入道雲のような白い雲の形に。それがやがて、赤、黄、青、「まるで虹のよう」と言った途端に吹き飛ばされ、思わず工場の中で伏せていました。

 しばらくして、目を開けて工場内を見ましたが、埃と真っ暗闇で何も見えず、再び裏の水飲み場に行ってみました。広島方面で黒煙が上がっています。「あっ、爆弾が落ちた」と思いました。どれだけ時間が過ぎたのか、学生は正門前に集合。何事が起きたのか誰にも分からず、ただただ不安な時間が経つばかり。そのうち、工場の前の道路に、ボロボロの服、裸足の人が歩いて海田方面へ向かう姿が次々と見え始めました。その人たちに「爆弾はどこに落ちたの?」と聞いても、皆「自分のいた場所の近く」と言うだけで、さっぱり分かりません。もしかして、自分の家は? 家族は?どうしよう。頭の中がパニック。考えている間もなく、たくさんの怪我人が工場内に運ばれ、私たちもお手伝いしました。

 「日が暮れるまでに、とにかく行けるところまで帰ってみよう」との先生のお話で、家が同じ方向である人とグループで歩いて、府中のキリンビール工場近くを回って、やっと、東練兵場(現広島駅新幹線口周辺)までたどり着きました。しかし、「市内は燃えていて危険なので入ることはできない、駄目」と言われ、折り返し工場へと帰り、一晩中、広島市内の赤く燃える空を眺めておりました。自分の家は、家族は大丈夫だと、自分の胸に何度も何度も言い聞かせて、一夜を過ごしました。全員が同じ思いで祈っていたと思います。

 七日、夜明けと共に、昨日のグループと一緒に同じ道を歩き、やっと広島駅前に着きました。そこで見たものは、遠く西の己斐(こい)の山が見える焼け野原でした。一瞬、「えっ、これ何?」と思わず声が出ました。これでは家も焼けている。でも、母と姉はきっと逃げてくれている、と自分に言い聞かせながら、友達と急ぎ足で家路に。最初に、常盤橋の上で、真っ黒焦げの人体を見て、思わず走って逃げました。とにかく恐ろしかった。そこから、さまざまな死体を目にして走り走り家に帰りましたが、何もない。燃える物は燃え尽きて、残っているのは玄関前にあった防火用水の水槽と台所の流し、かまど、風呂釜(当時は五右衛門風呂)と、燃え切れないものだけ。思わず座り込みました。でも、当日は下駄履きでしたので足元が熱く、小走りに家の跡をぐるぐる回り、何かないかと探しました。手掛かりになるものは一切なく、どうしようとぼんやりしていました。

 唯一ホッとできるものが見えました。大好きな猫が流しの下で丸くなっていましたので、もしかしてと思い、そーっと手を伸ばして触ろうとしたら、一瞬のうちに逃げました。追いかけたけど、駄目でした。猫が生きていたので母も姉もきっと大丈夫、と自分に言い聞かせ、焼け跡を見て、ボーとしていました。そのうち人がボツボツ訪ねてきて、この辺で逃げられた人は、縮景園か東の饒津(にぎつ)神社辺りにいると聞き、急いでまずは縮景園に行きました。たくさんの怪我人、火傷をした人、ガラスの破片の突き刺さった人。兵隊さんは帽子の跡が丸く、くっきりと付いていて、眉の下からは火傷。サッカーボールのような頭、顔は腫れて、皆同じ顔。これが人なのかと思うくらい。周りにはたくさんの死体。もう見ていられない、恐ろしい、気持ち悪い、という思いでその場を去り、次の饒津神社へ向かいました。

 そこで、私の家の前の戸田さんのおじいさんとおばさんに会えました。うれしかった。これで母と姉は大丈夫、とホッとしたけど、尋ねる前に「藤川の家は二階家だから、誰も見てない。恐らく無理」の一言。私は思わず座り込みました。やがて、おじいさんに「この辺と東練兵場の付近を捜してみては」と言われ、日暮れまで回ってみましたが、手掛かりはありませんでした。たくさんの人の死んでいる姿を見るのが恐ろしく、心細くなり、どうしようと考えている時、道行く人から、段原は焼けていないそうだと聞きました。母方の兄と姉の家があるので、急ぎ足で行きました。家は壊れていましたが、広島女子商業学校(現広島女子商学園)の近くで叔父さんの声がしたので、思わず大声で呼びました。これまでの事情を話して、一晩お世話になりました。

 八日朝早く、叔父さんと、リヤカーにバケツと掘り起こす道具を積んで家の焼け跡に行き、あちこち棒でつつき、捜しました。やっと、見たくないものを見付けました。玄関脇に母の金歯、間違いなく母の骨、そして台所辺りに姉らしき頭蓋骨が一つポツンとありました。私は骨に問いかけ、「どうしてこんな姿になったの。なぜ死んだの。なぜ逃げなかったの」と、訳も分からず叫んでいました。バカバカと泣きながら、バケツ一杯、骨を拾いました。やっと叔父さんに声を掛けられて我に返り、日暮れまでに段原に帰り、またお世話になりました。

 九日、荷物を疎開してある中深川(なかふかわ)へ行きました。そこには、母の妹、姪が元気で迎えてくれ、今までの事情を話して、ただただ涙でした。それから一週間して、姉(長女)が生きていると聞かされ、びっくりしました。隣に住んでいた姉は、八月六日、ちょうど裏庭に出ていて建物の下敷きにならず、腕に火傷とガラスで怪我をして、やっとの思いで中深川に着いたそうです。食事もせず、下痢が続き、衰弱がひどく大変な状態だったので、私には知らせずにということだったのです。その姉が、甲奴(こうぬ)郡の奥に疎開している祖母と長女十歳にどうしても早く会いたいと言うのです。その姉を連れて列車とバスを乗り継ぎ、倒れる寸前の様子でやっと家にたどり着きました。姉の最期の気力で思いがかなったのです。

 私は一泊して再び中深川へ帰り、連日広島市内を歩きました。避難所に張り出してある名前を一生懸命捜しました。毎日がむなしい日でした。わが家の隣で被爆した姉(長女)の子どもたち(六歳と四歳)の骨は、はっきりとは識別できませんでした。義兄は出勤途中で不明。私(五女)の家には母、姉二人(三女と四女)、そして姉(三女)の子ども(四歳)がいました。すぐ上の姉は、前日の休日を友だちと代わったために、家で焼死(元暁部隊井口出張所勤務)。その上の姉は、主人が軍属で戦地に行っていたので、子どもを連れて実家であるわが家に帰っていて焼死。甲奴郡の疎開先に行った姉(長女)は九月一日に死亡。毛髪が束になって抜け落ち、肌は紫色、全身の毛穴から血が吹き出て、すさまじい最期だったそうです。娘は十歳ですから、お母さんはオバケだと言って、近づかなかったそうです。この話を聞いて、爆弾って物凄いものだと考えさせられました。

 後に原爆という新しい爆弾だと分かり、戦争の恐ろしさ、惨さが身にしみ、「なぜなぜ」の繰り返しの日々を過ごしました。私の家の近所の人はほとんど消息が分かりません。小学校、女学校のお友達のことも、あまり思い出せないほどです。当時の幼い子どもは、白いご飯、お菓子、いろいろな楽しい遊びを知らないで、天国へ行ったのです。

 現在は、何でも欲しい物は手に入る時代です。幸せすぎて、戦争があって、たくさんの犠牲者のおかげで現在があり、平和な日々を過ごせることに感謝しなければいけないと思います。私もやっと子どもに、八月六日の話をするようになれました。三人の子育て中は、大人になるまでは話したくないという気持ちが胸の奥深くにあり、やっと七年前、皆で広島に行った時、資料館に案内。それぞれの思いがあったようです。私が老いたからこそ、自分の生きてきた遠い昔の話を受け止めてほしいと願いました。戦争は絶対にしてはいけない。全てのものが破壊され無になる。人の心も空になり、夢も希望もなくなる。折角この世に生を受けたからには、大切に大切に生きたいものです。平和な日々を過ごせる現在、人々は一番大切なことを忘れているように思われます。

 被爆後、一年間学校に行きました。お友達は髪の毛が抜けて、ネッカチーフをかぶって登校していましたが、数年後に死亡しました。年が経つにつれ、何人もの人が若くして原爆症で亡くなりました。原爆症で苦しんでいる人が、今だにたくさんおられます。もう皆、高齢者です。私も七十五歳、仲間です。私は八名の亡くなった皆の命をもらって、今日まで頑張ってきました。母より長生きで、とても幸せを感じています。六十年間、大波小波に揺られて今日まで過ごしてこられたことを、亡くなった人々に感謝しております。

 最後に皆に、ありがとうと申し上げたいです。

・・・七十五歳