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《平和を祈る人たちへ》
あの大変なときのやさしさに

三原 霜子(旧姓 河石)
高女五十四回、広島市西区在住

 当時、女学校の四年生だった私たちは、学徒動員で東洋工業(現マツダ)、鉄道管理局、第二総軍と三カ所で働いていましたが、体の弱い人、動員先で体調を崩した人たちが居残り組で学校に通っていました。私は居残り組で、原爆の落ちる一、二週間程前から(記憶がはっきりしません)五人くらいで比治山のお寺(名前は忘れました)の陸軍の分室に動員されました。女学院の生徒だけでした。

 そこでは、南方や中国など日本が戦闘していた各方面の部隊から送られてきた戦死された方の遺骨を名簿に照らしながら遺骨箱に入れる作業をしていました。朝礼も軍隊と一緒で、当番の人は点呼をして「○○は本日、日直当番引き受けました。バケツ一個・・・」などと、大きな声で引継ぎをすることに初めは戸惑うこともありましたが、皆さん優しい方ばかりでした。朝礼が済むと、近くを駆け足で一回りして作業が始まります。比治山の横穴に遺骨が保管してあり、白木の箱に遺骨を入れ、白い布でくるみ、名前を記入して遺族の方にお寺で慰霊式をしてお渡しするという作業でした。噂に聞いておりましたが、中にはお名前だけで遺骨のない方のもありました。野戦病院で亡くなられた方は、一人ずつの骨ですが、他の方のは一つの箱に何人というのに驚きました。その骨を名簿の数だけ箱を並べ、箸で一つずつ遺骨箱に入れ、白い布で包んで名前を書くということを一日中横穴でしていました。作業が進み数がまとまりますと、ご遺族の方を招いてお寺で慰霊祭をしてお渡しするのです。

 少し前まで私は寄宿舎にいましたが、食糧事情もあり吉浦にいた叔父の家から通学していました。八月六日七時五分、吉浦発の汽車に乗りました。当時汽車通学では、女学生は車両の一番後ろ、男子生徒は一番前の車両と決まっていました。いつも一緒の三年生のNさん(Nさんも一緒に動員されていました)が乗っていないので、次の列車にしようかと、いったんは列車から降りましたが、考え直してその列車に乗りました。呉からYさんが乗っていたので、「今日で私の定期券が切れるので証明書をもらいに学校へ行くから」と話し、広島駅に着いて二人で学校のほうに向かって歩き始めました。でも、栄橋の手前で考え直し、「動員先に遅刻するのも嫌だから昼休みが二時間あるので学校に取りに行くから先生に作ってもらっていてね」と、Yさんに頼んで駅に引き返しました。そして、市内電車で鶴見橋で降りて、お寺に行きました。

 後で知ったのですが、Yさんは、学校に着いてすぐに、原爆が落ちて亡くなられたそうです。あの時、私もYさんと一緒に学校に行っていたら同じ運命になっていたでしょう。寄宿舎が一緒で同じ呉出身だったのでとても悲しく、最後に話したことやお顔を今でもはっきりと思い浮かべます。人間の運命はどこで変わるか分からないものだと思いました。

 お寺に着いて、井川准尉が私の防空頭巾を見て、「空襲警報は解除になったよ」と話されていた時、写真のフラッシュのような青い強い光が目に入り、思わず腕で目を覆いました。真っ暗になりそのまま分からなくなってしまいました。気が付いた時は、生き埋めになっていて、助け出してもらいました。西部二部隊の分室だったので救援の方が早く来てくださり、家の下敷きになっていたみんなをいち早く救出してくださったのだと思います。

 爆風で二メートルくらい飛ばされていました。両腕は火傷、梁(はり)で打ったところは腫れ上がり頭から血が出ていました。幸いお寺なので、ガラスがなくてガラスで怪我をすることはありませんでした。大きなお寺の梁で下敷きにならなかったことが奇跡のようです。お寺の境内は、たくさんの人が倒れ、ほとんどの人が即死のようでした。私も二、三分着くのが遅いと同じようになっていたと、後で気が付きました。いつも兵隊さんの食事を運んで来られていたおじさんも本堂の階段で亡くなっていました。私は腕が埃で真っ黒になっていましたので、壊れた水道からチョロチョロと出ていた水で腕を洗い、そこで初めて赤身の出た傷を見て火傷をしていると気が付きました。水で洗うととても痛くなり、洗い流さなければよかったと後悔しました。

 何があったのか何がなんだか分からなくて、呉でB29の空襲に合っている私は、爆弾が落ちたと思っていました。一汽車遅れで広島に着いたNさんが、「広島駅で電車を待っていたら爆弾が落ちてきた」と全身大火傷をした姿でいらっしゃいました。歩いてこられたそうで、今から逃げるからと言うと、彼女は「私はここにいる」と言われ、そこで別れてしまいました。とても体がきつかったのでしょう。そこには、兵隊さん(将校さん)もおられたのでそのまま残られたのですが、その後Nさんはどうなったか分かりません。今でもNさんのあの時のお姿が私の心の中から離れることはありません。

 准尉の人が私たちを「安全な所まで連れて行くから」とおっしゃって比治山を抜けて段原から東練兵場まで連れて行ってくださいました。比治山では胸の所で手をぶら下げて、その手は皮膚がぶら下がり、バサバサの髪は茶色で埃まみれ、顔は膨れて丸く、力なく「水を下さい」と言いながらたくさんの人が歩いておられました。途中、兵隊さんが素足で歩いていた私たちに段原の民家で下駄を取って来てくださり、足を捻挫していた私は棒切れを拾って杖にし、大正橋を通って東練兵場まで来ると、「自分たちは軍の任務があるからここから、ここからは自分たちで帰るように」ということで別れました。

 いつの間にか私は、下級生のKさんと二人になっていました。Kさんは寄宿舎におられて柳井まで帰れないので、私と一緒に叔父の家に行こうと一緒に逃げることにしました。交通のこと、町のことなどの様子は分かりませんでした。東練兵場では、火傷をした軍馬が鳴き声を上げていました。帽子の所だけ髪の毛が残り、ほかは大火傷をして悲鳴を上げている兵隊さんがたくさんおられました。多分演習をしていたのだと思います。医療班のテントがあり、私も傷を治療してもらおうと思いましたが、治療といってもヨードチンキを塗るだけで、頑丈そうな兵隊さんもうめき声を上げていらっしゃいましたので、その様子を見て怖くなり治療をしてもらうのをやめました。Kさんと「ここで野宿しようか」と話しましたが、東練兵場は、第二総軍の建物がパリパリと音を立てながら真っ赤な炎を出して燃え、たくさんの怪我をした人もいましたので、野宿はやめ痛い足を引きずりながら人の流れに付いて行った所が東照宮でした。

 東照宮に着くと、水が流れていたのでその水を飲もうとすると、傍にいた人から「水を飲んだら死ぬから、飲んではいけない」と強く言われました。私は喉がとても渇いていたので死んでもいいからと制止されるのも聞かないで、手の平ですくって飲みました。その時、体育の佐々木マキヨ先生が、「女学院の人はいませんか」と大きな声で尋ねていらっしゃいました。先生に会った時は、地獄で神様に会ったようにうれしく思いました。先生は牛田山に行くようにと言われ、傍にいた高等師範の生徒さんに牛田山まで連れて行ってくださるように頼んでくださいました。今考えても、どこを歩いたのか分かりません。

 何かあった時は牛田の修練道場に行くようにと言われていましたので、牛田にたどり着いてホッとしたのも束の間、兵隊さんがいて、「ここにはドラム缶が置いてあり爆発すると危険なので、さっき先生や学生さんみんなに避難してもらって誰もいないので、貴方たちもすぐここから避難してください」と言われ、張り詰めていた気持ちが崩れてしまい、泣きそうになりました。思案に暮れていると、牛田山まで連れて来てくれた高等師範の学生さんが修練道場の横を通り、細い山道を歩いて戸坂(へさか)まで連れて行ってくださいました。お名前を聞くことも気が付かず申し訳ないことをしたと、あの時のことを思い出すと命の恩人なのにと今も胸が痛みます。

 戸坂に着いた時は、辺りは薄暗くなっていました。時間も全然分からず、汽車の汽笛が悲しく聞こえたのを今でも思い出します。初めて来た土地で、どこに行ったらいいのかも分からず、どうしたらいいのか思案していましたら、通りがかりの土地の方らしい人に、「家はどこ?」と聞かれ、「呉」と答えたところ、「海田市まで行くと呉線の汽車が走っているよ」と教えてくださり、どうしても吉浦の叔父の家まで帰りたくてKさんと歩いて海田市まで行くことにしました。

 どこをどう歩いたかは思い出しませんが、ただ叔父の家にという思いだけで無我夢中で歩きましたが、暗くはなるし、朝から何も食べていないので疲れてきて歩けなくなりました。海軍の車が止まっていて、「呉に帰るのですか?」とわらにもすがる気持で聞いたところ、これから救援に行くところだからと言われ、ガッカリしてそこに座り込んでしまいました。海軍の方も呉に帰るところなら連れて帰ってあげるのにと慰めてくださいました。今度こそここで寝るしかないと諦めていましたら、通りすがりの人が海田市まで連れて行ってあげるからと勇気づけてくださり、途中から私を背負ってくださいました。海軍の方が頼んでくださったのかも分りません。どこを歩いているか見当がつきませんが、キリンビールの工場の建物が見えたのを憶えています。その方もお怪我をしていらっしゃいましたのに、すっかり甘えて海田市までおんぶされたままで来てしまいました。

 海田市に着いた時に、呉線の最終列車が出るところでベルが鳴っていて、駅員の人から「早く乗りなさい」と言われ、挨拶を言う暇もなく汽車に飛び乗りました。列車は満員でデッキにまで人が溢れていました。私を背負ってくださった方は、歩きながらいろいろと話をしてくださり、国鉄の方だと分かりました。  叔父の家では、近所の人から比治山の火薬庫が爆発したらしいという話で、怪我人がトラックでどんどん運ばれているのに、最終列車も行ってしまって今まで帰ってこないのだからもう死んでいるのだろうと、叔父の知らせで来ていた姉も一緒に、明日遺体を捜しに行こうと話していたところでした。真夜中に叔父の家にたどり着いた時は、ベランダから「本当に霜子ちゃん? おばけではない?」と従姉妹や叔母に言われました。焼け焦げたモンペを脱いで風呂に入り食事をした時は、張り詰めていた気持がホッとして、涙が流れて仕方がありませんでした。

 姉が海軍の軍需部の医務室に挺(てい)身隊で出ていましたので、軍医さんが火傷の薬を下さり、火傷の治療が上手だった父の処置の仕方を母や姉が知っていて、毎日ガーゼ交換をしてくれ治療ができたこと。生き埋めになって助けていただいたときに、傷に付いていた塵を洗い流したこと。水を飲んで水分を補給したこと。その時は放射能の灰とは知ることもなかったけど、放射能の灰が付いたまま歩いていたら今の私はいなかったかも分かりません。数々の偶然が、私には良い方に行って、爆心地に近い所だったのに助かったことは神様のおかげと感謝しています。蚊にかまれた所や傷が化膿して半年くらい治らず、体がだるくとても困りました。後日、従兄弟に原爆のことを話したとき、皮膚を洗ったこと、水を飲んだことなど、対応が良かったからと言ってくれました。

 今でも戸坂の町に行ったり(町の様子はすっかり変わっていますが)、キリンビールの工場(最近建物はなくなりました)の建物を見ると、六十年前のことを思い出し、心細い思いで歩いたあの日のことが鮮明に思い出されます。子どもだったのに何も食べないでよく歩いたものと・・・。Kさんが一緒でなかったらどこかで行き倒れになっていたかもしれないと、あの時以来お会いしていないKさんにいつも感謝をしています。

 最後に、お世話になりながらお名前を聞くこともなくお別れした方々のおかげで、今日があることに心からお礼を申したい気持ち、あの大変なときに心優しい方々がいらしたこと、少しの間だったけど私たち女学院の生徒が工場だけではなく戦死された方の遺骨の作業をしていたことも知っていただきたく、書かせていただきました。

・・・七十五歳