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《平和を祈る人たちへ》
家族の骨を銅鍋に入れて持って帰った日

北中 芳子(旧姓 桧山)
高女五十五回、東京都西東京市在住

 八月六日早朝、紙屋町を七時十五分発の八重行きのバスで弟を疎開先に連れて行くため、東洋工業(現マツダ)の仕事を休みました。

 可部を過ぎて山道を上り始めた頃、バスが傾くかと思うくらい揺れました。驚いて弟と抱き合って窓の外を見ると、きのこのような雲が目の前に上がってきました。車中の人々が秘密の工場が爆発したと騒いでいたので、広島市は大丈夫とあまり心配せず、弟を学童疎開に預け、折り返しバスに乗って帰りました。バスは可部から先は行けず、電車も止まり火傷で爛(ただ)れた人、血を流した人、怪我をした人、ともかく皆傷だらけの人でした。

 今まで見たこともない光景で、震えながら線路を歩きました。私たちの疎開先、緑町にたどり着き、市内全焼を知りました。私と妹は泣き続けておりました。父が帰って来たので詳しい様子が分かりました。夜空は真っ赤でした。

 八月七日、家族を捜すため父と入市。歩いて横川に出ましたが、道路が熱くて歩けません。水道管が破裂して水が噴出しているので、足を水につけては歩きました。橋は曲がって、道路には、服はボロボロ、傷だらけで死んだ人がいっぱい。防火用水の水槽の中に入っている人は水がないのに水膨れ。髪の毛、人間の焼けた臭いで気持ち悪くなり、嘔吐しながら歩きました。相生橋に立った時、広島市がなくなったとやっと分かり、父にしがみついて大きな声で泣き叫びました。

 福屋しか見えないのです。八丁堀、鉄砲町一番、わが家の焼け跡は熱くて・・・。風呂釜とひき臼が形をとどめておりました。それを目標に、六日の朝を思い出して捜しました。やはり、母は玄関、祖母、弟、妹、台所のひき臼のそばでした。骨を銅鍋に入れて持ち帰りました。

 八月九日頃かと思いますが、父と牛田山に生存を届けに行きました。

 原田寿先生が私の顔を見て喜んでくださったのが、心に残っております。島崎高次、吉川冨美先生方、亡くなられたことはとても残念でした。

・・・七十四歳