english

ここから本文エリア

他の証言・資料 Others

《平和を祈る人たちへ》
原爆の影を引きずって六十年

武永 舜子(旧姓 武永)
高女五十五回、広島市中区在住

 朝八時過ぎ、黄色の閃光(せんこう)と物凄い爆風に襲われ、一瞬のうちに二階建ての建物は崩れましたが、私は机の下に運良くはまり天井に押しつぶされなかったのです。真っ暗な闇の中でうめき声と同僚の泣き声。パチパチと燃え始めた建物。考える余裕もなく、私は夢中で天井を破り這い出たのです。仲良しだった友人が真っ先に脱出し、「助けに来るからね」と声を残して・・・。何分か何十分か分からない間に時が流れましたが、彼女は帰って来ませんでした。帰れなかったのでしょう。

 その日、その時、私は十五歳。女学院の三年生で、最後の学徒動員で上八丁堀京口門にあった財務局に勤務中で、出勤したばかりでした。崩れ落ちた屋内から外に出ると、町の姿は消え、辺りは火の海。ひどい火傷の人が逃げて行く光景はこの世の姿とは思えず、浅野の泉邸(縮景園)裏の川に飛び込んだ人がどんどん流れて行きます。その時、黒い雨がすごい勢いで降り始め、川岸には火柱が立ちました。

 やっと逃げて友人の家に泊めてもらうと、家族のことが心配になり始め、毎日、市内に出て捜し求めたのです。焼け跡の中で再会したのは一週間ぶり。父と四女である妹と会うことができたのです。涙の中で生きている喜びを感じながら! 生きていたのです。

 父は当時四十八歳、全身傷だらけでした。父が言うには、その傷口の治療をしている間に、女学院専攻科に通っていた長女十七歳は、泉邸に父娘で逃げたその日に亡くなったそうです。それから、女学院一年生の三女である妹は建物疎開の手伝いをしていて、大河(おおこう)国民学校に収容されていることが分かりました。でも、全身火傷で、鼻の穴からも皮膚からも血が果てしなく流れ、「痛い」との声も出さず、静かに死んでいったのです。どんなに苦しかったことでしょう! 十日くらいは生きていたのです。

 私たちは妹を送って、家族三人で父の古里である大林(広島市安佐北区)で世話になることになったのですが、とたんに原爆症が出始めたのです。頭髪に櫛を入れると一日のうちにバサバサと抜け、少女の私には櫛を入れるのが恐ろしく、髪を触らないようにしていましたが、手が自然に頭にいくとまたパラパラと抜け、一週間くらいするとほとんど髪が抜け落ち、悲しい日々が続きました。末娘である四女の妹は、まだ国民学校一年で小さかったので、髪が全部抜け丸坊主になっても元気が回復し、近所のおじさんから「うちの牛のシッポをつけてやろうか?」とよく冗談を言われていました。

 ひどい原爆症で三人とも口から血の塊を洗面器いっぱいに吐き、父は何日も血便が続きました。四十二度の高熱が続きましたが、血の塊を吐き出すとみるみるうちに熱が下がり始めました。今考えると、あの時毒をみな吐き出したからではと思うのです。助かったのです。隣の部屋では叔母たちが「三つも葬式を出すようになる」と話しているのが聞こえるのです。よく分らない病でジフテリアの病症に似ているというので、看護婦をしていた従姉が呉まで血清注射を取りに行きましたが、その注射をすると足が立たなくなり、蚊に刺された皮膚も化膿するありさまでした。

 半年くらい経ったでしょうか。私は体が痩せ始め、突然生理もなくなって、気力が衰える月日が過ぎました。一方、父は次第に元気を取り戻し、自転車に乗って大林から毎日広島の町に出掛けるようになりました。わが家の復興を一番に考えたのでしょう。翌年四月、ついに小さなバラック建ての家が出来上がったのです。  焼野原に一軒、私たちは自分の家が建ったのがうれしくて、妹は家中をはしゃぎ回っていました。何もない焼野原。遠く宇品の海が見通せるのです。でも、夜になると暗い暗いが瓦礫(がれき)の中に死んでいった人の鬼火が燃えているようでした。父は角材を探してきて「嗚呼(ああ)武永母子の墓」と墓標に刻み、私たちは毎日手を合わせました。

 母(四十三歳、被爆死)未だに分かりません。
 長女(十八歳、女学院専攻科動員中)死亡。泉邸まで逃げその夜亡くなったのです。
 三女(十三歳、女学院一年生学徒動員中)死亡。

 何も木々も生えないといわれた瓦礫の中に、一本の夾竹桃(きょうちくとう)が赤い花をつけて咲いているのです。希望がかすかにわいてきたのを覚えています。

 しかし、消すことのできない思い出がまだ続きます。戦後、古美術商を営んでいた父との別れ(昭和三十八年、食道癌で死亡)。妹がまた、昨年(平成十六年五月)八カ月の闘病生活の末、この世を去りました。全身の癌でした。まだ、思い出が鮮明に残っているので信じられません。どこかで生きているのではと・・・。

 ただ一人残った肉親も亡くなり、結局、私一人になったのです。残り少なくなった私の人生、どのように生き、何を残せるのか、被爆が今後ともずっと重荷になって続くのか、実際のところ良く分かりません。幸い、私は娘夫婦とかわいい孫たちに囲まれて暮らしています。この幸せは亡くなった家族、被爆死した方々の上に築かれていると信じて、感謝と合掌の毎日を送っています。

 肉親との別れがある度に思い出すのは、家族全員が被爆者であるという事実を引きずってきた六十年余りでした。あまりにも悲惨であった被爆体験だけに、話すことをなんとなく控えていたのも事実です。被爆六十年を迎え、記憶が残っているうちに、子どもたち、孫たちに機会があるごとに語り伝えていきたいと思うようになりました。同時に、平和の灯を消すことなく燃やし続けてほしいと願いつつ、毎朝平和公園で祈り歩き続けています。

・・・七十四歳