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他の証言・資料 Others

《平和を祈る人たちへ》
前日は星が降り注ぐきれいな夜空

平田 パトリシア 久枝(旧姓 向井)
高女五十五回・大英一回、米国カリフォルニア州在住

 昭和二十年八月六日、私は中学生でした。当時の中学生は軍の命令より学校へ行くことができず、軍事工場で労働に従事する毎日でした。男はみんな軍隊に取られ、労働者不足のため、十四歳の少女たちを旋盤工として使ったのです。

 原爆投下の前夜、私は二人の姉と二階の窓辺に座り、星が降り注ぐようにきれいな夜空を眺めながら、流れ星を数えていました、不思議なほどきれいで静かな夜でした。その美しい夜空は明日も晴天を約束していました。

 六日は、朝から照りつけるような暑い日でした。私は早めに工場に着いたので、友達と一緒に屋外に水を飲みに行きました。すると一瞬、マグネシウムのような強烈な閃光(せんこう)を浴びました。振り向くと、太陽のような火の塊がきのこのような形をした雲と一緒に、こちらに向かってくるので、急いで屋内に入りました。その瞬間、辺りは暗闇となりました。埃が収まって辺りを見回すと、窓ガラスは壊れ、まるで竜巻が通った後のようでした。何が起こったのか、見当もつきませんでした。その工場は爆心地より四キロ離れており、原爆被害の範囲内ぎりぎりのところに位置していたため、怪我人は出ませんでした。

 それから一時間ぐらい経って外に出ると、火傷を負った怪我人が、ボロボロの衣服をまとって、ぞろぞろと歩いているのが見えました。何が起こったのか、彼らにも分かりませんでした。みんなひどい火傷を負っているので、「アメリカが新しい爆弾に油を混ぜて落としたのかもしれない」とお友達とは話しました。工場に泊まるわけにいかないので、帰宅するようにと先生が生徒に告げました。しかし「広島の町は火の海で帰ることは難しい」との情報が入り、みんな泣きました。それでも各方面ごとにグループをつくって、帰宅することにしました。

 私の家は町の西に位置し、工場は東に位置していました。とにかく山を越えて帰ることにしました。みんなで歩いている時、時々眺める広島の空はオレンジ色に染まり、燃えていました。思い出の多い町が消えていく、悲しいその時の気持ちは今も忘れられません。

 山越えの途中、たくさんの兵隊に会いました。彼らはみんな火傷のため、皮膚をぶら下げ、帽子をかぶった頭の毛だけが残り、まるでこけし人形のような頭をしていました。ある兵隊は爆風のため衣類まで吹き飛び、裸同然でした。無言で歩いているその行列は、この世のものとは思われませんでした。兵隊の一人が十四歳の泣いている少女に向かって、「日本人の子だ。頑張れ」と言っていました。その兵隊はすぐ死んだことでしょう。

 山沿いにある私の家は、すぐ前で火が消えて火災は免れましたが、家は青空が見えるほど屋根が吹き飛んでいました。母はガラスの破片で、大変な怪我を負っていました。一歩外に出ると、あちこちに瀕死の人が倒れており、「水、水」と細い声で哀願していました。その顔はみんな、人間の顔とは思われませんでした。

 わが家では、夜になっても姉が帰ってこないので心配でした。もしかして姉があのようなひどい顔になって帰るのではないかと、無事を祈っていました。それから、四日経った八月十日に、姉が避難している所から連絡があり、兄が自転車に乗せて連れて帰りました。その姉を見て、私は心臓が止まりそうでした。近所で倒れていた人に比べ、ずっと悲惨な姿でした。半袖のブラウスから出ている腕、そして顔は二倍に膨れ上がり、焼け過ぎのチキンバーベキューのように真っ黒で、あちこちにウジ虫が這っていました。私の兄は、そのウジ虫をピンセットで取ってきれいにしました。姉は「お兄さん、あなたがこんなになったら私がお世話するからね」と感謝の気持ちを述べました。兄は笑って、「自分はこんな目にあいたくないよ」と答えました。

 その姉は、三日後、家族みんなにお礼を言って亡くなりました。十九歳でした。みんなで姉の亡骸を手押し車に乗せ、近くの公園まで運びました。穴を掘り、父が一人残って焼きました。身元が確認できない死体は、十人ずつまとめて重ねてありました。家族が身内を焼く作業は、秋も深まる頃まで続きました。なぜなら、外見は元気そうに見えた人が、白血病のような症状を示して、次々と亡くなったからです。その頃、「次は誰だろう」と、みんな不安な日々を過ごしました。

 原爆投下はその時ばかりでなく、長く人々の健康に害を与えました。アメリカでは、広島に比べて、死者の数の推定が大きく懸け離れて報告されており、惨状を示す資料は、国民に示されていないと聞いています。キリスト教国アメリカとしては触れられたくないほど、非人道的な大虐殺だったからです。犠牲者の多くが、年寄り、子ども、主婦を含めた非戦闘員で、一瞬にして十数万人が焼き殺されたのです。「罪もない人たちを殺さなくても、どこか山岳地か海辺に落としてもその威力は示されたはず」。私はいつもそのように思っています。原爆投下後の地獄を見てきた私は、原爆の使用は地球上の人類を守るためにも、永久に禁止されるべきだと心から祈っています。

・・・七十四歳