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《平和を祈る人たちへ》
校舎のガラスが入ったままの私の腕

吉成 順子(旧姓 森西)
高女五十五回、東京都江戸川区在住

 昭和二十年二月末日で、私たち当時二年生は授業を打ち切り、三月より動員ということになりました。ほとんどの人は東洋工業(現マツダ)でしたが、私はその頃、翠町に住んでいて宇品に近かったので、小数の人と共に宇品の鉄道局に行くことになりました。

 鉄道局では、辰原さんと田近さんと私は、小荷物の仕事をすることになりましたが、三人とも事務の内容は異なり、三人で机を並べてはいませんでした。次第に戦争が激しくなり、宇品には陸軍の施設が多いので危険ということで、私たちの課はほかへ疎開することになったようです。でも、私たちの課は規模が大きかったので女学院の空いている校舎に移ることになって、一、二年生が使っていた校舎を使用することになりました。私は自分の仕事を早く正確にするために少し早めに出掛けては、事務員の人より早く仕事を始めていました。

 八月六日の朝も、いつも通り八丁堀で電車を下りて早めに自分の部屋に入りました。そして、いつも通りまだ誰も来ていませんでしたが、田近さんの机の上には田近さんの救急袋が置いてあったので、きっと幼稚園の二階でピアノを弾かれているのだろうと思いました。私は自分の机の上に救急袋を置き、印鑑だけを持って庶務に行きました。庶務は私たちが美術室として使っていた教室でした。入り口を入って行くと、庶務の仕事をしていた藤田裕子さんが一番奥で課長さんの机を拭かれていました。私は真っすぐ南側の窓際の机の上に出してあった出勤簿の所へ行き、判を押しかけました。その時「シューッ」という鋭い音がして、目の前の窓の外を光が走り、雨天体操場と美術室の中間にあった炊事の設備のあった小さな建物の窓が強く光りました。私は一瞬驚きましたが、そのまま判を押し、今の光は? と訝(いぶか)りながら、二、三歩入り口の方へ歩きました。そして、そのまま気を失ったようです。

 ですから、私は爆弾が落ちた音も、自分が下敷きになったことも、全然記憶がありません。何分経ったのか分かりませんが、「助けて! 助けて・・・」という声が小さく夢の中のように聞こえ、その声がだんだん大きく現実の声になってきて、私の意識は戻って来たようです。でも、周りは真っ暗で何も分からず、顔には頭からヌルヌルした液が垂れてきて、私はうつ伏せに倒れて建物の下敷きになっているのだということが次第に分かってきました。一生懸命助けを求める人たちの声の中に、藤田さんの「苦しい! 苦しい! 首の上のものを取って・・・」という声が聞こえました。でも、一向に助けに来てくれる気配はなく、そのうちに藤田さんの「みんな、さようなら!」という声が聞こえました。そして、気が付くと、最初のころ「私が外に出たら、みんなを助けてあげるから」と言われていた上級生の人の声がしなくなっていました。

 私は何とかしなければいけないと考え、暗闇の中で一番近くで声がしている中岡さんに声を掛けてみました。するとすぐ中岡さんから応答があったので「どこか出る所はない?」と言ってみました。中岡さんは「探してみる」と言われ、間もなく「出られるよ!」と言われました。それで、「こっち、こっち」と言う声の方に体を動かしていくと外の明かりが見えました。私は「早く、早く」と言う声の方に体を動かして外に出ようとしましたが、途中目の前に天井裏の配線がたくさん垂れ下がっていて目をつむってくぐり抜けました。八月六日で私にとって一番怖い思いをした時です。

 そして、倒れた校舎の上に立って運動場の方を見た時、私は本当にびっくりしました。運動場は異常に静かで人影は全然なく、建物が全部倒れているのは分かりましたが、全体に灰色のもやがかかっているようで、生物教室の辺りははっきりとは見えませんでした。そこには夏の朝の校庭とは思えない無気味な空気が漂っていました。八月六日で私にとって一番ショックを受けた光景でした。

 私は次第に気が動転してきて、自分の足元を見たとき、今自分がどこから抜け出してきたのかも分からなくなっていました。そして、中で助けを求めている人たちの声も全然外には聞こえてきませんでした。周りを見ると、倒れた校舎の上にうずくまっている男の人がいました。よく見ると、庶務の仕事をされていた吉田さんという人でした。吉田さんの五分刈りの頭はでこぼこになっていて、そこから血が滲んで、ただ頭を抱えものを言う気力もないようでした。その時、校舎の幼稚園側の端から女の事務員さんが一人抜け出して、私たちの方へ走って来て、「あなたたち、早く逃げなさい」と言われました。私たちが「吉田さんが・・・」と言うと、「吉田さんは私が連れて逃げるから、早く逃げなさい」と言われました。幼稚園の方をよく見ると、幼稚園の向かい側の住宅から火が出ていました。どこから道路へ出て良いのかも分からない状態でしたが、当時幼稚園と校舎との間に大きな防火用貯水槽が造られ、その水を道路側からも使用できるように、女学院の赤レンガの塀の一部分が壊されていたのを思い出し、私たちは水槽の縁を伝って、そこから道路へ飛び下りました。

 道路には避難する人の列が続いていて、皆建物の下から抜け出した人なのか、埃をかぶったような状態で、ゾロゾロと無言で白島方面へ続いていました。その行列は常盤橋を渡り右の方面に続きましたが、私たちは牛田の農場に行きたかったので、左の方に行きました。饒津(にぎつ)神社の横の道を通るとき、境内の大きな木が道の上に枝を伸ばしており、その枝の葉がバリバリと音を立てて燃えていたので、折れて落ちてこないかと必死に走り抜けました。川に沿った道から女学院の方へ細い道を右に曲がって少し行くと、道沿いの民家が炎を出して燃えていたので怖くなり、農場へ行くのをあきらめて早稲田の方から山へ入りました。

 山道を少し登ると平らな所にテントが張ってあって、陸軍の人が三、四人いてテントの中には通信機のようなものが置いてある机と椅子があり、一般の人も二、三人休んでいましたので、私たちもそのテントの中で休ませてもらうことにしました。私はただボーッとしていましたが、時々、もしかすると空から落下傘で米兵が降りてくるかもしれないと神経を尖(とが)らせていました。

 正午近くになって、そのテントの中に二人の女の人が避難して来られました。その方たちは偶然にも私たちと同じ課の事務員さんでした。二人は広島駅前から女学院へ向かっていた時に光を浴びたのですが、一人はすぐ伏せたので無傷でしたが、もう一人は伏せるのが遅れてひどい火傷でした。顔は腫れ上がり、上下の瞼がくっつき、「目が見えない・・・。お母さんに会いたい・・・」としきりに言われていました。腕の皮膚がツルリと剥(は)がれて指先から垂れ下がり本当にお気の毒な状態で、私はまともに見ることができませんでした。

 そのうち夕方になってきたので、町の様子も気になって山から下りてみました。そして川のほとりに工兵隊の作業場のような広場があったので、そこでしばらく休むことにしました。入り口から入って右側には一般の人たちが休んでおり、左側には上半身に火傷を負った兵隊の人がゴロゴロと横になっていて治療を待っていました。そこに若い陸軍の将校が現われ、何となく現状視察と思われたので、私は将校に思い切って私たちの住んでいる町名を言い、状況を聞いてみました。すると、その人は「その辺りは大丈夫ですよ」と答えられました。

 それを聞いた時、それはこの八月六日で私が一番うれしかった時でした。私には帰る家があるようだし、家族も大丈夫らしい。私たちはすぐ広場を離れ帰ることにしましたが、日は暮れかかっていましたし途中の様子が分からないので、その日に帰ることはあきらめ、中岡さんのお知り合いの家が牛田にあったので、一晩泊めていただくことにしました。そのお家では本当に親切にしていただきました。

 そして翌日、私は家に帰ることができたのです。私の外傷はガラスによる傷(いまだに破片が腕に入っています)と、左肩の脱臼(柔道の先生に治してもらいました)でした。同じ場所にいた人たちが命を失われたということは、私にとってたまらなく辛いことで、六十年間、いつも何か戸惑いのようなものを感じながらの毎日です。

・・・七十四歳