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《平和を祈る人たちへ》
四次元の炎

愛宕 尚代(旧姓 迫田)
高女五十六回、長崎県長崎市在住

 生粋の広島っ子の私が、長崎へ移り住んでから四十年になろうとしている。十年を一昔というが、六昔前、私は広島のきのこ雲の下にいた。

 昭和二十年八月六日午前八時十五分、広島市雑魚場町、県立第一中学校裏門前であった。爆心地から、わずか一キロメートル程の地点である。当時、本土空襲に備えて、市内に碁盤の目のように家を取り除き、火災が起きても類焼を防ぐ方策中だった。高等女学校の二年生だった私は、倒された家屋の瓦や木材を片付ける作業に従事していた。

 その時、私は列の先頭に立って、香典の相談をしていた。クラスメートの兄が呉の大空襲で亡くなり、香典をいくら集めるかの相談だった。頭上で爆音がした。「空襲警報解除のサイレンがさっき鳴ったのに。変だなあ。」と空を振り仰いだ途端、ピカーッとマグネシウムをたいたような閃光(せんこう)が眼前を覆い、重さを増してグイグイと頭上から押さえ付けてきた。「ワーッ」と声をあげながら、私は両手を泳がせ地面にもぐる格好になった。

 どれだけ経ったのか分からない。私は気絶していたらしい。気が付くと真っ青な空が見えた。雲一つない透明で、善良で、明るい、真っ青な空だけが私の視野にあった。地に向かって潜ったはずなのに、私は仰向けに倒されていて、胸の所まで厚いコンクリートの塀で押さえ付けられていた。信じられない出来事だった。夢なのだろうか。しばらくポカーンと空を見つめていた。きれいだなあ。こんな空見たことないなあ。「神様―」「助けてー」「お母さーん」。遠くで叫んでいる。身動きできぬ残された者たちが助けを呼んだのだ。

 酒もたばこも嗜(たしな)まず、あぐらをかくこともしなかった祖父が、初孫の私にしてくれた数々の昔話は私を文学好きの少女にしていた。「神様―。これが現実ですかー」「現実ですかー」。文学少女も叫んでいた。右手に人影が動いた。その男は身にぼろをまとい両手を幽霊のように構えていた。顔は平家蟹のように膨れ上がり、人相など見定められなかった。視野に入る唯一の人間である。「おじさーん。助けてー。ここでーす。出してえー」。声を限りの叫びにも何の反応もなかった。「だめ! 人を当てにはできない。自分で抜け出さねば」。身体を動かすと下の方で「痛い」と声がした。「この下に誰かいる」。身動きできなくなった私は、身を固くして空を見あげるしかなかった。胸を押さえつけている塀は、先程まで石垣の上にあった家の塀と気が付いた。一体、何が起こったというのだろう。悪夢なら早く覚めてくれと願った。

 パチパチと音がしはじめた。空を黒い煙が汚した。頭の方向から燃えてくる気配だ。下で痛がられても私は逃げ出さねばならない。そっと身体を動かしてみた。「痛い」の声は、もはやなかった。厚いコンクリートの塀の下で「あっ、靴が」。ボール紙に布を張った国防色の靴の片方が脱げ落ちた。でも構ってはおれない。肩をずらし、腰を振り、足を折り曲げ、少しずつ少しずつ、ずり上がった。自力で塀を抜け出られたのは奇跡としかいいようがない。

 どれほど時間がかかったことだろう。時間の観念は全くなかった。埋もれていた塀の中から起き上がった時、左膝のモンペが裂けて、薄暗い中に、口を開けた柘榴(ざくろ)のような膝頭が見えた。「いや、違う。私は怪我なんかしてないよ」。自分に言い聞かせながら立ち上がった。人は方向を建物によって認識するのか。前後左右、建造物が全てなくなった今、どの方向が駅なのか皆目分からない。なにがしかの人の流れが、瓦礫(がれき)の中の舗装道路を行き来している。瓦礫を踏んで道に出る。どうしてそちらに歩き出したのか今もって分からないが、とにかくそちらに歩き出した。鮮やかな日差しの中を歩く心に、割れた膝頭がひっかかっていたが、「何事もない。怪我なんかしていない」と、呪文を唱えながら歩いた。

 「家に帰りたい。でも、どちらに行けばいいのだろう」。すると、「迫田さん」。突然、呼びかけた相手は、両手を胸の辺りに持ち上げて、目も鼻も平面化し、ぼろ布をワカメのようにぶら下げた少女であった。「私よ、忠岡よ。荷物置場の当番してたら、ドーンというて真っ暗になって、何んものうなったん。連れて逃げて」。私に級長としての自覚が目覚めた。「うん、おいで」。手を取るとズルッと肌がずれた。「痛いよお」。彼女はひどい火傷を負っていた。「ちゃんとついて来んさい」。行き来する人は誰も人のことに構ってはいない。用ありげに行き過ぎていく。「迫田さん。もう歩けん」。「だめ!しっかり歩かにゃあ」。衣類の端をつまんで連れ立つ。向こうから荷馬車がガラガラやって来た。「もう歩けん。あれに乗る」。それに乗れば、今来た方へ戻ることになるのだが、行こうと引こうとこの際、何の意味があろう。どこかに行けば何かが待っている希望的観測が働いていた。馬方に断ることもしない。乗るなと拒否されることもない。人のことに構っておれぬ冷徹さと、そこにあるものは誰のものでもない奇妙な連帯感が生じていた。荷馬車の後に友を押し上げて乗せた。さよならも言わずじまいだった。

 足元に泥まみれのゲートルが長々と延びていた。誰がどうして捨てて行ったのだろう。気になっていた膝の柘榴をそれで巻いて隠した。「これでよし」。私は一人で、また歩き出した。道が川にぶつかった。キリキリとゲートルを巻きあげて、制服制帽の背中に、鉄カブトを掛けた消防団員が、橋の袂(たもと)で指示を与えていた。「己斐(こい)へ帰るのは、どの道を行くんですか」。初めてものを教えてくれる人に出会ったのだった。「己斐の方はだめ。街中が燃えとるけん。とても行けんよ。橋を渡って比治山の方へ逃げんさい」。あきらめきれずに、次の消防団員に聞いた。「己斐へは・・・」「とても行けんね。街中ひどいことになっとるけえ」。先月、初潮をみたばかりの十三歳の少女は、わが家の方角も分からぬまま立ち往生するばかりであった。

 川は満々と潮をたたえて静かな藍色だった。ゆっくりと見回すと、後方は全て壊滅した家屋、所々に煙が立ち昇り、白いコンクリートの道が二又に流れ、ポツンポツンと孤独なビルが数カ所見えた。前方の橋を渡った所に電車の線路が見え、川岸の家々は、くすぶり始めていた。橋の袂が輸送路になっているらしく、時々トラックが来て止まった。消防団員の指図で、通り掛かりの人たちが乗り込んでは発車して行く。私はそれに乗れなかった。乗れば家から、ますます遠ざかる気がして乗れなかった。

 どれ位そこにうずくまっていたか。気が付くと、対岸が燃え始めて盛んに火の粉を吹き上げていた。日中なのに真っ赤な炎を見たように覚えているのは幻覚だろうか。パチパチ音まで聞こえてきて、見たこともない大火事が目前に展開した。人々は挑まなかった。眼前の火事を見つめるだけである。防火用水も、バケツリレーも、砂袋も、荒縄で作った火叩きも、研ぎすました切り口の竹槍も何の役にも立たなかった。忠岡さんが見張り番をしていた荷物置場には、学徒動員の我々が、それぞれ常時携帯していた防空頭巾と救急袋が山積みされていた。袋の中には、三角巾をはじめ、ハサミ、ピンセット、薬用品一式、茶筒に詰めた炒り米、炒り豆など、しばらくは困らぬはずの防衛品であった。それも、一切役に立たなかった。左膝に巻いた泥々のゲートルは、緩んで抜けて足首にとぐろを巻いていた。ずり上げても、ずり上げても、足首にとぐろを巻くのであった。

 広島市民は、自分の所に爆弾が落ちたと信じた。誰かが助けに来てくれると待った。待っても、待っても、誰も来てくれぬと理解した時、自力で抜け出るしかないと悟った。日常の準備も常識も一切埒外(らちがい)であった。想像を超えた未曽有の坩堝(るつぼ)の中に各々投げ込まれたのであった

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 爆心地より約四キロメートル。西の外れの己斐町で当時三十五歳、臨月の母が、三人の弟と被爆していた。父は防衛招集で市内ではあるが出征中だった。腸炎で一カ月も病んでいた一番末の二歳になる弟をやっと寝かせた母は、厠(かわや)の窓から主屋の屋根にピカーッと光る物が落ちるのを見た。途端に、ドーンと大音響がした。「家がやられた。家に焼夷(しょうい)弾が落ちた」。便所の戸が開かぬ。叩いて蹴り上げて傾いた戸を開け、縁側をどう走ったか覚えがない。末っ子を抱き上げた。その間も、ガラガラ、ガラガラ、瓦が、壁が、窓が、ガラスが落ちてくる。爆弾が落ちたのに燃えてこないとチラと思った。横手の小路に、裏戸をこじ開けて出てみると、どこもかしこも瓦礫(がれき)の山、何がどうなったのか思案がつかない。と、町の方から橋を渡ってボロボロの服を垂れ下げて、手から顔から皮膚をぶらさげ、両手を幽霊のように持ち上げた人たちが、ゾロゾロとやって来る。家の下に防空壕は掘ってあったが、恐ろしくてとても入る気にならぬ。郵便局の辺りから燃えてくる模様だ。家の前にあった町内用の大きな貯水槽に、今朝炊いたばかりの一升釜を御飯ごと、鍋に、薬缶に、金庫に、ミシン、手当たり次第、沈めて山に避難した。

 その頃、真っ黒い雲がぐんぐん頭上を覆って来て、黒い夕立が激しく降ったという。人々はアメリカが、ガソリンを撒いて爆弾を落とし、焼き殺す計画だと噂した。夕方、父が、同じ防空召集仲間の住職と帰って来た。二人で手をつないで火の海をくぐり抜けて帰ったとか。一人ではとても生きて帰れなかったというのが、その後の二人の口癖だった。十一人己斐から招集され、生還したのはこの二人だけだった。他の人は消息も死体も分からずじまいだった。私の行方不明と、軍隊から預かった鉄カブトを失ったことが、父の心労だった。しかし、すぐ己斐国民学校へ消防団員として、援護に出掛けて行った。講堂にゴロゴロ転がっている避難者の中から、数日もするとウジ虫が這い出して、それを掃除したり、息絶えた人々を校庭の中央に掘った穴の中に積みあげて次々焼いていくのが仕事だった。交替時間に私を捜しに街に出た父が、爆音でくぼみに身を伏せていると、誰やら自分の麦わら帽子を取って行こうとした。「おいおい、わしはまだ生きとるんじゃけえ」と、返してもらった話は笑えぬ現実である。「大事な時には、いつも父さん、人のために出掛けて、家の役には一つも立ってくれてんなかった」と言うのが母の口癖であるが、明治男の面目躍如である。

 ひもじくはある、心細くはある母たちに、父の田舎、佐伯郡の奥から迎えが来た。五歳と三歳の弟を自転車で連れて行ってもらった母は、黒い夕立の後、病の弟を乳母車に乗せて田舎に向かった。やっと田舎に着くと、先着していた弟たちは声を限りに泣き合って、皆を困らせていた。一応落ちついた母に、私のことが大きくのしかかって来た。やっと一カ月前、改築して入居した家も、物も、何一つ惜しいとは思わない。ただ、娘の命一つが望みだった。「どこかできっとあの子は生きている。死んだりするものか」。固く信じていながら、目に浮かぶのは、火傷を痛がり床を転げ回る長女の姿だった。今朝方、「遅刻だ。遅刻だ」と慌しく駆けて行った後ろ姿だった。なぜ、あの時、そのまま出掛けさせたのか。「康宏の具合も悪いし、父さんも留守なのだから・・・」と、なぜ学校を休ませなかったのか。勉強するでもない学校に、どうして平気で送り出したのか。益もない後悔が胸を突く。「本にばかり熱中しないで家事を手伝って!」となぜ怒ったりしたんだろう。「怒るんじゃなかった。今、あの子は、どんな格好で、どこにいるのだろう」。そばに親がいるので、安心してはしゃぎ回る弟たちを眺めながら、ドス黒い不安を押し隠し、「きっと生きている。きっと生きている」と、自分に言い聞かせる母であった。

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 対岸の火事は、頬に熱い程に燃え盛った。人々の注目を集めて燃え殻となるまで天を焦がすだろう。現実とは思えない凄まじさであった。炎を見つめていた私の胸に、呉市の空襲で助かった人のことが浮かんだ。直撃弾を免れた人たちも、あちこちで起った火事で逃げ場を失ってほとんど死んだ。助かったのは川に飛び込んで難を逃れた者だけだったというのだ。「川だ。目の前にある川に身を沈めよう」。石段を降りて行くと筏(いかだ)が浮かんでいて、数人の先客が乗っていた。水は石垣をヒタヒタと打って、私の背丈以上と思われた。立ち泳ぎで筏に近づいた私は、どうにも左足がままならぬことに気が付いた。お転婆にもひけをとらなかった私は、これしきのことと頑張ったが駄目だった。しばらく筏につかまって水の中にいたが、どうにもならない。きっとあの傷のせいだ。見ないふりしている膝の傷のせいだと分かった。チラと見ただけだが、膝の上を斜めに十五センチメートル位、口が開いて、肉の間を右に左に青い血管が走っていた。親指の先程の黄色い固まりが、脂肪なのだろうか。二つ三つ散らばって、柘榴口は悪魔めいていた。血は一滴も見なかった。肉は殻をは剥(は)がれた海老のように白っぽく、怪我というより、私の意志に従わぬ生き物が一匹膝に住みついた感じだった。

 水の中でゲートルは抜け落ちてしまった。靴は片方だけはいていたのか、裸足だったのか、全く記憶にない。決断して陸に上がることにした。筏は満員になり、なおも人々は乗り上がろうとしていた。「川に沈んでいなくたって、私は絶対助かる」。この気持ちが強く私を支配した。この自信は一体、何だったのだろうか。河畔伝いに人の流れに乗って、周辺部へ歩き出した。人の流れは一方的で、私のように、手に一物もない者、リュックを背負い両手に包みを提げた者、ぼろ布を幾筋もぶら下げたような衣服の者、きちんとした身なりの者など、入り交じって郊外に向かって動く。黙々と動く。「足どうしたの」。後から追い越そうとした若い女性が声を掛けてくれた。「まあ、ひどい。これで縛りなさい」。救急袋の中から三角巾を出して、膝をしっかり巻いてくれた。ありがたかった。名前を聞く才覚もなかった。「先を急ぐから元気でね」と追い越して行った。その人が、声を掛けてくれた唯一の人だった。今、御存命だろうか。

 水道の蛇口が吹っ飛んで、水がドウドウと溢れている。急に渇きを覚えた。瓦礫を踏んで近づきガブガブと飲んだ。休んでは飲み、休んでは飲み、飲めるだけ飲んで、また歩き出した。橋の袂(たもと)の消防団員が、この先の被服廠(しょう)が救護所になっていると教えていたのを思い出した。そこに行ってみよう。だけど、それらしきものは一向に見当たらない。やっと半壊の家があって、入り口のそばに足洗い場の水道が見えた。子ども心に、水のあるうちに飲んでおかねばとの思いが私を動かした。あまり渇きはなかったが、蛇口をひねった。杉の木陰に腰を下ろした。涼しい風が吹いて、今に目が覚めてこれまでのことは全部夢だった、となるかも知れないと・・・。

 疲れてそのまま横になったが、突然、吐き気がして、ありったけもどしてしまった。起き上がって、それを片付ける力もなかった。顔をそむけて横になったままだった。半壊の家は寮のようだった。嘔吐の上に砂をかけてくれる人もいなかった。いつの間に寝込んだのか、どれくらい眠ったのか、寒さを感じて目が覚めた。悪夢はやはり現実だった。尿意をもよおして身を起こした。右足を立て、左足を起こそうとしたが上がらない。重い石をくくりつけたようで、それがだんだん重さを増して、百貫(三百七十キログラム)にも千貫(三・七五トン)にもなってくる。左足に居座った悪魔のせいだ。もう一度やり直し。駄目。左足はいやが上にも重くなって苔むした岩になった。辺りは夕暮れて、人影もなかった。尿意は盛る。足は動かない。身をよじり曲げて、何とか用を足すのに、どれ程時が経っただろう。全身、汗びっしょりだった。

 火事場の馬鹿力というのか、未曾有の衝撃に遭遇して、この足で川に沈み、数キロメートルを歩いて、痛くも痒くもなくここまで来たが、一旦腰を落ち着けた今は、自分の意志で動く気もしない左足だった。尿の溜りから、吐潟の汚物から、一寸、二寸身をよじる。常時なら大人の数人も駆け付け、戸板に乗せ、病院に担ぎ込まれる程の負傷なのだ。自分しか頼れない少女は、渾身の力を絞って汚物からもう少し身を離した。ここで夜を明かすか、救護所までたどり着くか、思案の分かれ目だった。

 このままではいけない。それが結論だった。幸い、身の丈程の棒が目についた。長い時間かかって休み、休み、にじり寄った。必死で立ち上がる。「痛くない。重くない。怪我なんか何でもない」。言い聞かせながら歩き出した。歩くといえるものではなかった。困難な困難な行であった。大きな夕日が、畑の向こうに沈もうとしていた。こんな事態なのに、美しい茜色の十メートルを三十分もかかる歩みだった。向こうから、薬缶をさげたおばさんが来た。水をくみに行くところだった。「被服廠はどこですか?」「あらあ、あんた、被服廠はずっと向こうよ。通り過ぎて来たんじゃね。被服廠なら怪我も見てくれるし、面倒もみてくれるけえ。後戻りせんにゃあ」。ようやくに、やって来た道を戻ることの遠さ。棒を支えに、やっと一足、そして一足、にじり歩みの荒行が続いた。

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 被服廠はごった返していた。が、さすがに統制が取れていた。どんな顔か今では思い出せないが、白衣を着た四十がらみの男が、膝を十一針縫ってくれた。もちろん、麻酔などない縫合である。白い包帯をきりっと巻いてもらって、筵(むしろ)一枚が私の所有地だった。毛布を一枚掛けて床に寝ころがった私は満足だった。膝の他に、左右の肘を五センチ角、火傷しているのが分った。荷札に住所、氏名を書いて胸元に着けられ、天井を見上げる平穏は、地獄街道をたどった身に最上の喜びであった。周りには筵一枚の同族がうごめいている。大半は火傷の患者だった。全身を、前身を、後身を火傷して、横になれない者、座れない者たちも多かった。放射線を浴びた方向が火傷になったらしいが、当時は何が起こってどうなったか、誰も知らなかった。大釜にどぶろくのような粥を炊いて丼につぎ、塩漬けの梅をポトンと一つ落として配給していた。私はそれを手にしたが、とても食べられなかった。目も腫れつぶれ、口元も火傷でただれ果てた中学生が、ジュルジュルとそれをすすっている。「金ちゃんじゃない」と言うと、「うん、誰れ?」と言う。ほとんど見えないらしい。「私、迫田よ」。それは小学校の同級生でわりに近くにあった料亭の息子であった。「己斐へ帰る時は一緒にね」と約束をした。

 その夜の避難所は生き地獄だった。真っ暗な中で爆音が聞こえる。「キャーッ」「こわーい」「お母さーん」「助けてくれー」。悲鳴の渦だ。それまで空中戦を見物したり、B29が墜落するのを見たりして自慢話に花が咲くこともあったが、八月六日以降は、警戒警報のサイレンだけで怯え、爆音を聞けば生きた心地はしなかった。闇は更に恐怖をかき立てた。

 爆音の聞こえない時も安らかではなかった。暗闇の中で譫言(たわごと)が始まる。「アッ。シャボン玉! シャボン玉。ひとーつ。ふたあーつ。みいーつ。よおーつ。・・・」。際限なく数を読む。時々シャボン玉は壊れて消える。「消えた。消えたぞ。シャボン玉。アッ。シャボン玉、シャボン玉、シャボン玉だ! ひとーつ。ふたあーつ・・・」。七百も八百幾つも続くこともあるし、十幾つで消え去ることもあった。シャボン玉の繰り返しに対抗して、「ハリマオー。ハリマオか。助けに来てくれたか。オオ。マライのハリマオ。ハリマオだー。ハリマオだぞー」。英雄を迎える歓喜の叫びが張り切る。それに交じって痛みを訴えるうめき、泣き声、異臭。闇の中の声は疲れを知らなかった。

 太陽の光が切実にうれしかった。火傷らしい火傷もせず、意識もはっきりしていて、膝の治療も済んだ私の一番の恐怖は、排泄を覚える時だった。筵を出て、床を這い、石段を降りて人影のない所まで、とにかくいざった。石段のそばの粥はまだ食べる気がしない。水ばかり飲んだ。「患者には水を飲ませるな」が鉄則のようだった。特に火傷の患者には水を飲ませると絶命するというので、あちらでも、こちらでも「水をくれ」「水、水」とあえぐのに水を与えなかった。「水を」「水」「水」という声が聞こえなくなった時、人は事切れていた。私は水しか喉を通らなかった。必死のトイレ行の度に、水ばかり飲んだ。死んでも本望だとたらふく飲んだ。この水が体内の毒消しになった。嘔吐したのも良かった。足の傷で身動きできず、体力を消耗しなかったのも幸いした。私の場合、すべて指針は「生」に向かっていたと後で分かったのだった。

 筵一枚、わが世界の私の目に、右目が打撲で腫れつぶれ、青あざになった額から後頭部をぐるぐる包帯で巻いたおばあさんが映った。「先生、先生、大野先生!」それはいつも袴を着け、物差しで生徒を叱りつけた小学校の裁縫の先生だった。「まあ、あんたもかいね。よかった、よかった、生きとってよかった」。片方の目からポタポタ涙を流して、先生は手を握った。もう一人、同級生の多井さんが全身火傷で収容されているという。三人の親元に、呉から駆け付けた先生の弟を伝令に走らせてくれた。多井さんは迎えの来る前に、金ちゃんは家に帰ってからすぐに死んだと聞いた。

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 恐怖の夜に、三夜耐えた。九日の昼頃、リヤカーで田舎の伯父と従兄が迎えに来てくれた。当時、貴重品だったミカンの缶詰を一つ持って。天下の絶品、そのおいしかったこと。息もつかず食べた。「その缶はいるんかいの。わしゃあ、缶がいるんじゃが」。周りのみんなが私を注目しているのに気付いた。缶ではなくて、まだ残っている中身が欲しいのは一目瞭然であった。一息ついた私は、いさぎよく差し出したものだった。

 遺骸を引き取る覚悟で、市内に出て来た伯父たちは凱旋将軍のようにペダルを踏んだ。焼けただれた街は、まだくすぶっていた。電信柱に背を押さえ付けられたまま、電柱だけ焼けていった死体、三倍にも膨れ上がって川の中をうつ伏せに浮いている死体、町内用の大きな防火水槽に首を突っ込んだまま尻を上げている死体、地獄はまだそこここに口を開けていた。

 自転車で三時間余り、佐伯郡の片田舎が父の故郷である。小学生時代から夏休みになると、子ども用の自転車で父の後を懸命に追って墓参りに行ったり、メダカを取ったり、なじんできた田舎である。伯父の家からガヤガヤと人が出て来るところだった。ミカン箱の一方をぶち抜いて、そこに幼い足が十センチばかり出ていた。足は見覚えのある浴衣を着ていた。病気で寝ていた二歳になる弟の出棺に出くわしたのであった。「迫田さーん。お母さーん。生きていますよー。大丈夫ですよー。戻って来ましたー」。誰かが叫んだ。母が、オロオロと出て来た。どうしても足が前に進まず、ただ、「生きていた、生きていた」とこみ上げてくるもので目も見えなくなったという。

 雑魚場町(ざこばちょう)にいた同級生二百数名のうち、生き残った十人足らずの一人だった私の、ここからが、更に困難な時代への出発点となったのであった。

・・・七十三歳