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他の証言・資料 Others

《平和を祈る人たちへ》
爆心地から七百メートルの地点で

小方 澄子(旧姓 三好)
高女五十六回会友、広島県廿日市市在住

 私たち家族は広島市榎町に住んでいましたが、家屋の強制疎開を命じられて、とりあえず爆心地にさらに近い十日市町に移っていました。八月六日の日は、家に伯母、私、弟二人(五歳と三歳)がおりました。母は八月五日に学童疎開に行っている弟(国民学校五年生)の所へ面会に行っていました。父は昭和十六年八月に、赤紙一枚で五人を残し、日中戦争へ出征していました。

 当時、私は女学校二年生でした。前日は空襲警報発令の連続で睡眠不足のため、その日は体調を崩して学校を休んでいました。朝トイレから出た瞬間、突然の轟音(ごうおん)。家の下敷きになり気絶していたのだと思います。頭上で私の名前を呼ぶ伯母の叫び声で気が付き、必死で返事を繰り返しました。伯母は私の声が聞こえる辺りの瓦を一枚ずつめくってくれたそうです。真上から聞こえる叫び声の方に、必死の思いで這い上がると、辺りは火の海でした。恐ろしさに声も出ませんでした。伯母は瓦礫(がれき)の中から弟たちを助け出し、私は三歳の弟を、伯母は五歳の弟を背負って逃げました。

 家から西電話局の建物を目指して逃げるのですが、道路らしいものはなく、倒壊した家の中から這い出る人やうめき声、傷ついて逃げることのできない人たちの中を、死にもの狂いで広瀬橋にたどり着きました。すでに橋の欄干は燃えていて落ちる寸前でした。西へ西へと逃げました。川の中は熱さのためか水を求めてか、飛び込んだ人たちでいっぱいでした。何時間歩き続けたことか、次の川にたどり着いた頃、力尽きて川辺にかがみ込み背中に手をやると、弟はしっかりとしがみ付いていました。うれしさで思わず弟を抱きしめると、涙が溢れ出ました。それから、私は嘔吐や下痢が始まり、川のそばから離れることができなくなりました。

 その内、空が急に曇り、夕立のような黒い雨が降り出し、弟や周りの人たちが黒く染まっていく姿を雨に濡れながら、呆然と見つめていました。我に返って自分の姿を見ると、素足で足の裏は火傷でピリピリと痛み、着ている服はみんなと同じ、まるでボロ布をまとっているようでした。辺りには赤膨れになった死体が散乱していました。

 少し移動して鉄道の線路の上に這い上がり市内を見ると、一面まだ炎に包まれていました。みんなと一夜を過ごし、翌朝、救護班の方からもらった一個のおむすびのおいしかったこと、忘れることはできません。その日(七日)の夕方、母とも再会し、お互いに抱き合って無事を喜び合いました。それから一週間の野宿が始まります。死体にはもうウジ虫がわき、火傷をした人はみんな皮膚がぶら下がり、「診療所はどこですか・・・。水を下さい」とうめきながらさまよい歩いていました。死者は日増しに増え、悪臭が漂い、まるで地獄絵巻を見るように私の目に焼き付きました。

 とりあえず、田舎の親戚(広島県高田郡郷野村)へ身を寄せることになります。幸い私たちは家の中での被爆なので外傷はあまりありませんでしたが、二十日くらい経って、四人とも高熱で倒れてしまいました。伯母は内臓からの出血で下血が続き、苦しみ抜きながら三十二歳の生涯を閉じました。私は高熱で意識のない日が数週間続いたので、伯母の死は隣で寝ていたのに全く知りませんでした。ただ覚えているのは、意識がある時に私に告げた「この状態なら二人とも助からないだろうけど、あの世で会いましょうね。死を恐れないでね・・・」という言葉でした。いくら「大君(おおきみ)の御盾(みたて)」となって死ぬという思想が、骨の髄までもしみ込んでいた時代とはいえ、残念でたまらなかったことと思います。

 私は頭髪が抜け始め、体のあちこちに薄紫の斑点ができ、皮膚が腫れ上がり膿がジクジクと出て、治癒するまでは床に伏したままの状態で、半年の歳月が流れました。ようやく治癒した傷跡は、今もケロイドになって残っています。弟たちは頭髪が抜けてしまいましたが、秋が深まる頃から次第に回復していったそうです。

 私は五十七年間、思い出したくもなく、人に話すことも辛過ぎて決断はできませんでした。でも、先日遠縁の方や新婦人の会の方々から被爆の生き証人として伝えていくことの大切さを知らされ、亡くなった多くの級友からも天の声が聞こえてくるような気がして、自分の体験記が何らかの役に立てばと思い立ちました。そう決心するまでには本当に長い年月が必要でした。この世に核兵器は一切必要ありませんが、今の世界の状況を見ると不安でなりません。

 これだけのことを書き留めるだけでも、当時の状況を思い出し泣いては書き、泣いては書き、やっとまとめました。辛い作業でした。

(平成十三年他誌掲載)

・・・七十三歳