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他の証言・資料 Others

《平和を祈る人たちへ》
人生を導いたこの経験 ―犠牲となった学友に捧げて―

桂 和子(旧姓 津野)
高女五十六回・大英二回、米国オレゴン州在住

     はじめに

 数日前、私は七十三歳の誕生日を迎えた。幼くかわいい孫たちは大事な貯金の中からバースデーケーキを買ってやってきた。この子たちにとっては大きな出来事であり、そのケーキはただのケーキではなかった。真心のこもったケーキだった。そして、ケーキの上には「おばあちゃん、お誕生日おめでとう」という祝いの言葉がピンク色の飾り文字で書いてあった。

 平均寿命が伸びて、今の七十三歳は昔の七十三歳とは全く違う。しかし、私の年代が生きた時代が歴史の激動期に当たったためか、もっと若い年代の人たちよりとても多くを経験したように感じる。孫たちが祝ってくれた数日前の誕生日もあれば、数十年経た今も、その時のままの光景が蘇る経験もある。一九四五年八月六日に私が経験した出来事は、まさにそうした経験の一つである。

       堪ちゃんのこと

 親愛なる幼友達の川本堪子さんは、最期に「喉が乾く。お水をちょうだい」「和ちゃんはどうしてる?」と、私のことを案じながら息を引き取った。元気で希望に燃えた十二歳の中学生だった彼女の人生は、原爆のために虚しく終焉を迎えた。堪子という名前は、かわいい一人娘が忍耐強い女性に育ちますようにとの両親の願いから付けられたものだった。しかし、その日の堪ちゃんは、自宅にたどり着くのが精いっぱい。それ以上耐えることができないほどに火傷し負傷していた。

 八月六日、月曜日。よく晴れた真夏の朝、七時半頃、中学校の制服をきちんと着た堪ちゃんが、まだ蚊帳(かや)の吊られた寝室で横になっていた私を揺さぶりながら、「和ちゃん、早く起きて、一緒に学校へ行こう」と誘ってくれた。堪ちゃんから声を掛けてもらい、一度は立ち上がってみた私だったが、それまで一度も経験したことがないほどに体が重く感じられ、せっかく誘ってもらっているのにどうしても起きることができなかった。「すまないけど、今日は先に行ってちょうだい」と言うと、堪ちゃんはがっかりしたような表情で、「では、一人で行くから気を付けてね」と、静かに言って出掛けて行った。あの時の彼女の姿は、六十年経た今も鮮明な映像として残っている。それが元気な堪ちゃんとの最期の会話になるとは・・・。誰に想像できたであろう。

 前日、八月五日の日曜日は、夏が行く前にということで、家族全員揃って廿日市の近くの海岸へ海水浴に行った。よく晴れて真夏の太陽がいっぱい。その日も海水浴には最高の日だった。日曜日だというのに人出はそれほどなく、客のほとんどは女性と子どもたちのグループだった。私たちは一日中無邪気に楽しんだ。戦争中でありながら、その辛い現実を一時忘れ、家族の平和と幸せを味あわせてやりたいという、私たち兄弟姉妹に対する母の愛情溢れる心遣いであった。今にして思えば、あのような状況でよくも海水浴に連れて行ってくれたものだと思う。母はいつも子どもたちの幸せを第一に考えてくれる人だった。心の広い人格で、気持ちにはいつも余裕があった。また行動力のある人でもあった。

 その日、私たちは宮島線を走る電車に揺られ、陽が暮れる頃に汗だくになって己斐(こい)のわが家へたどり着いた。これほど楽しくて平和な家族の外出は久しぶりのことで、毎日を学徒動員に駆り出され多忙に過ごしていた姉や兄、弟や妹、みんな大満足だった。戦時下の抑圧感から一時解放され、幼子のように無邪気に思う存分楽しみ、私たち子どもはそばにいる母の笑顔に癒され、心の安らぎを取り戻したのであろうと思う。

 八月六日、堪ちゃんが行った後、私が重い体を何とか「よっこらせ」と起こした頃には、寝室は空になっていた。私を除く家族の者たちは、日常の仕事に戻り、目もくらむような真夏の太陽が寝室にも差し込み始めていた。学校へ行くタイミングはすでに逃している。仕方なく休むことにした。九年間の私の学生生活で初めての欠席だった。少し遅くに起き出した私だったが、それでも昨日の荷物などを整理し、みんなの濡れた水着を全部丸い木製の洗濯桶で洗い終え、玄関に入ったちょうどその時だった。腹の底をえぐるようなドッカーンという大きな音がし、訳の分からない不気味な蒼白い光が目の前を走り、同時に物凄い爆風が襲った。気が付くと倒されていて、私は必死で母の名を呼び、母は私と弟の名前を呼んでいた。これはただ事でない。お互いに叫びだったと思う。台所にいた母が煤で真っ黒になった顔をして出てきた。それを目にした瞬間、「母はやられた」と私は動転した。しかし、本当に幸いなことに、母は顔が真っ黒になっただけだった。玄関で倒れこんだ時、爆風で壊れたガラスの破片で切り傷を負った私の脚と腕の方が少し出血していたくらいだった。

 しかし、家は爆風で無残な状態に。天井は全部剥(は)がれ、家中のガラス窓は全て破壊されていた。どんな爆弾が使われたか知る由もない状況で、私たちはわが家の頭上で爆弾が炸裂したとしか思えなかった。わが家にあった時計はすべて八時十五分を指したまま止まっていた。火事を心配した母が私と弟を連れて行った近所の防空壕には、すでにかなりの子どもたちが連れて来られていた。その母は地域の婦人会で役員をしていたため、負傷した人の治療や看護に忙しく、私と弟のいる防空壕には一度も入ってくることはなかった。

 その間中、私を悩ませたのは、万一母に何か起きたら、私たち兄弟姉妹は一体どうなるのだろうという不安と恐怖だった。父はすでに亡く、兄二人は軍籍にあり、姉ともう一人の兄は学徒動員で広島市内の各所で働いていた。防空壕の薄暗がりの中で、私は弟妹たちに対する責任を初めて自分の双肩に感じた。もし、母や兄姉がいなくなれば、私が家族の最年長になる。そうしたらと考えると、後の責任は全て私に掛かってくるのだと。周りに起きている状況は、悪夢のようではあってもすべて現実だった。私たち幼い者が孤児になる可能性は身近に迫っているように思えた。その時十三歳だった私は、今で思えばほんの子どもだが、少なくともその時は「大丈夫。やってみせる。私が家族の中心になる」と気丈に考えた。ところが、そのように筋道を立てて責任を引き受ける決心がつくと、不思議にそのことが大きな励みと力を与えたのを覚えている。急に私は大人に成長したような気がした。この時が私の内面の成長にとって大きな転換点となったと考えている。

 「堪ちゃんが帰ってきた。堪ちゃんが帰ってきた。和ちゃん、早く来てちょうだい。堪子が会いたいと言ってる」と、堪ちゃんのお母さんの叫び声。それはもう絶叫だった。いつものような一日になるはずだった暑い夏の朝、私の寝室で言葉を交わしてから一時間くらいしか経っていなかった。堪ちゃんは全身に火傷していて、全体が黒ずみ血もにじんでいた。元気できれいだった面影は全くなく、目が腫れ上がっていた。見るのも恐いくらい。火傷した体は触ることすらできなかった。その中でも堪ちゃんは、「和ちゃんは大丈夫?」と擦れた声で私を気遣った。残された命をふり絞ったその一言に胸を打たれ、言葉を失った私は、涙が止めどもなく流れた。全身に火傷を負い、腫れ上がった目はほとんど見えない。堪ちゃんは命をかけて自宅へたどり着き、いたたまれない気持ちで待っていたお母さんに迎えられた。苦しくて痛くて、自分の命が燃え尽きそうな状態なのに、朝体調のよくなかった私のことを気遣う気持ちを持っていた。私は堪ちゃんに人間愛を見せてもらった気がした。わが家と同じように破壊された堪ちゃんの家。その隅に敷かれた白いシーツ。そこに横たわった堪ちゃんは、お母さんに看取られ、数時間後に亡くなった。

 「目に入れても痛くない」いう諺がある。そのかわいい娘を亡くした堪ちゃんのお母さんは、どのような気持ちがしただろう。お母さんが泣き崩れる姿は見るも気の毒なほどだったが、堪ちゃんの目はもう開くことはなく動かぬ人になっていた。八月六日、私は、人生の悲劇、戦争が犯した罪など、一日に経験するには重過ぎる体験を午前中のわずか数時間のうちにしてしまったのである。ほんの一時間余りの差で生と死が分かれた。堪ちゃんは死に、私は学校を休んだために生きることができた。私は、この時、人生の虚しさを強く感じた。堪ちゃんは、街で育った私に田舎の生活が持つ自然と共に過ごす喜びを教えてくれた。薪(まき)集め、ヨメ菜採り、ワラビ採り、セリ採り、夏のホタル狩りなど、自然の憩いをたくさん教えてくれた。私の子ども時代が最高に幸せだったのは、堪ちゃんのおかげでもある。

     見知らぬ他人同士

 原子爆弾が落ちて数時間経つと、被爆した人たちが、その頃は郊外だった己斐へ避難して来られた。避難してくる人たちは、ほとんどが全身に火傷を負った高齢者や女性、生徒や子どもだった。全身大火傷を負い、焦げて黒い姿、腕や手が焼けて皮膚が垂れ下がっていた。照りつける猛暑の中を歩いておられるその姿は、この世のものではなく、まるで地獄絵だった。子どもは唯一の頼みである母を求めて「お母ちゃん、お母ちゃん」と叫びながら体力を消耗し道端に倒れていった。若い学生たちもどこへ行ったらよいのか行方を失い、行動する気力を失い、葛藤に苦しむ絶望の姿があった。母親は子どもたちの名を呼び続け、力尽きて道端に倒れ込み、動くことも叫ぶこともできなくなっていった。

 このように、己斐辺りの家の多くは被爆して火傷し避難してきた人々で溢れた。最初は大きかったうめき声もだんだんと弱くなり、聞こえなくなっていった。この人たちの人生は、理由もなくここで終わったのである。当時、己斐国民学校の校庭は臨時の火葬場になり、朝から晩まで、毎日のように黒い煙が辺り一帯を覆い、その臭いが四六時中絶えなかった。今焼かれているのは、生きておられた時はそれぞれに愛する人があり、家族があり、将来への抱負などを持っておられた人々であろうと思うと、無性に人の「いのち」の虚しさを感じさせられた。

 わが家に避難してきた人は数人。お一人は妊娠数カ月の女性と三歳くらいのかわいい女の子。この母子は里の親元へ疎開していて、市内の病院へ健診に行く途中の被爆だった。母親の方は半身火傷。女の子の方は見た目には無事で元気そうにしていて、床に横になり、お母さんの様子を見ながらおとなしくしていた。妊娠しているうえに三歳の娘を抱えた母親は、必死で逃れ、たどり着いたのがわが家だった。玄関で倒れ込み、立ち上がることができないほどであったが、ひと時の憩いがほしかったのであろう。私の母は心を込めてできるだけの看病をした。

 もう一組は兄が通う中学校のクラスメートKくんと伯父さん。一緒に疎開先から市内の自宅に荷物を取りに来ての被爆だった。二人とも全身といっていいほどの火傷で、伯父さんは頭をひどく負傷しておられた。二人で支え合い、ある時はKくんが伯父さんを背負っての避難だった。Kくんは帰ってきた私の兄と肩を抱き合って喜び、兄が天使に思えたと言う。しかし、このお二人の命も長くはなかった。

 わが家に避難してきた人たちとは、言ってみればもとは見ず知らずの他人同士。しかし、このような異常で緊急な時、助ける方も助けを求める方も人を選ぶことも断ることもできない事態がある。人間が他の動物と違うのは、人間には魂、霊というものが備わっている点ではないかと思う。愛と慈悲の徳と言い換えることもできると思う。原爆が落ちた後に私が経験したことは、恐らくこの世でもっともひどい状況の一つであろうが、その中でも、近所の人たちはみんな例外なく、被爆して避難してきた人々を懸命にケアし看護した。私の母もその一人である。この最も不幸な状況下で、私は人間が本来持っている愛の奉仕の尊さと偉大さに心を動かされたのである。

 翌日が動員の日だった兄は、その人たちの疎開先住所を調べ、親御さんやご親族へ連絡するため、ひと山越えて走り回った。妊娠中だった女性のお父さんは、その翌日自ら荷車を引き、山越えして駆け付けられた。妊娠中の娘と孫を案じ、重い荷車に火傷した娘さんと孫を乗せ、家族が待つ自宅に向かわれた。「ありがとうございました。あなたは命の恩人です。ご恩は一生忘れません」と感謝の言葉を母に残し、親子は抱き合って喜ばれたが、お父さんは哀れな姿となった娘さんの姿に涙を流された。荷車は娘さんたちを乗せてゆっくりと帰路に着いた。この様子を目の当たりにして、私は人の愛の偉大さに感動すると共に、その哀れさに胸が痛んだ。その時、お父さんのお気持ちはいかばかりであったか。人生経験が十分でない私は、精いっぱい心を込めて推察するしかなかった。

 娘さんの容態はその時すでに絶望的であったが、やはり数日後便りがあり、内容は私たちへの感謝と、お二人が安らかに自宅で亡くなったというものだった。悲しいニュースだが、少なくとも自分の親元で、親に看取られて亡くなられたことを良しとしなければならない非情な現実があった。Kくんの親戚の方も車を引いて駆け付けられ、Kくんと伯父さんを乗せて帰られた。Kくんも疎開先で親御さんに看取られ亡くなったと、後で聞いた。

     学徒動員、昌子さんのこと

 当時十三歳であったことはすでに述べたが、女学校二年生だった私は、これら全てを目の当たりにし、多くの疑問に捕らわれ悩んだ。しかし、それに対する回答はなかった。それらは戦争が犯した残虐性、不正義、人の死と恐怖であり、私の中で湧き上がる憤りと怒りであった。私にはこれら全てのことが理解できなかった。

 私の学年は三つのグループに分けられ、Aグループは学徒動員で、市内の作業に充てられた。Bグループは、学徒動員と第二総軍司令部での事務の仕事を一週間交替で務めた。Cグループは、司令部での事務の仕事だった。私の親友であった鎌崎昌子さんは、私と一緒のBグループで、八月六日からの一週間はちょうど市内の作業に行く予定になっていた。

 昌子さんは席が私の前で、私たちはなぜか親しくなった。とても個性的で成績優秀な生徒だった。昌子さんのお父さんは軍人で、その時はすでに戦死されていたらしく、ご家庭はお母さんと弟さんとの三人暮らしだった。軍人の娘ということもあってか、昌子さんはいつも礼儀正しく几帳面、それでいてとても優しく思いやりのある人だった。また、制服もいつもきちんと着ていて、周りの誰もが敬愛するような生徒だった。

 運命のその日、昌子さんは市内の作業のため、朝早く自宅を出た。その一時間余り後、彼女は全身火傷し、やっとの思いで自宅に帰った。お母さんから献身的な看護を受けたが、力の弱った彼女の命の灯が蘇ることはなかった。死の直前にもかかわらず、昌子さんは、その日体調が優れず欠席した私のことを「どうしているかしら。大丈夫かしら」と心配したそうである。実は前日、私は水蜜桃を差し上げていた。物が極端に不足していた状況だったので大事にとってあった。それを食べたいというので、お母さんが口にもっていってあげると、昌子さんは、ほんとうにおいしそうに呑み込んだ。みずみずしいその桃は、昌子さんが生きて味わった最期の甘くておいしい水分だった。その後、間もなく呼吸が止まり、お母さんに見守られて亡くなった。自分自身が死を前にしながら、親友の私のことを案じた昌子さん。これ以上の友情があるだろうか。彼女のことを思い出すと、私の胸は今もひどく痛む。将来が有望だった昌子さんの命も、無残に短く終わった。

 昭和二十年といえば、戦争はますます激しくなり、日常の食べ物も極端に不足するようになっていた。幸いなことに、私の住んでいた己斐辺りの状況は市内ほどにひどくなかった。野菜や果物は割に自由に手に入れることができた。それで、八月初めに出始めたおいしい水蜜桃も愉しむことができた。一人で食べるのはあまりにもったいないと思い、仲良しの昌子さんに二つ持っていったのである。とても喜んだ昌子さんは、もったいないと言って大事に取っておいたらしい。

 この日から数カ月して学校が再開し、生き残った生徒たちは、牛田山にある掘っ立て小屋同然の建物を教室にして授業が始まった。ある日、私を訪ねて来た人がいるとの伝言が届き、早速坂を駆け下りて行ってみると、私を訪ねて来られたその方は、正装の着物姿で待っておられた。その日は気持ちのよい秋日和で、大変な夏を経験した者には生き返る思いがした。まず、寂しく疲れたような声だったが、ご紹介で昌子さんのお母さんであることが分かった。突然のことで、私は何を言って差し上げたらよいのか分からず言葉がなかった。実は私は、昌子さんがこの秋学校へ帰って来ないので案じていたところで、亡くなったことをはっきり知っていたわけではなかったのだ。それに、昌子さんのお母さんがわざわざ山道を登って私を訪ねて来られるとは想像すらしていなかった。お母さんは、とつとつとした口調で昌子さんの最期を話して下さった。あの水蜜桃、そして友情にも感謝された。昌子さんのお母さんは、娘さんの最期の姿が忘れられずに私に会いに来られたのだと思った。お母さんの胸にはいろいろな思いがあったのではないか。私の中に娘さんを見たかったのかもしれない。なにせ亡くなってから、いくらも経っていなかったのである。

 それから六十年経った。今の私にはその時のお母さんの悲しみに心から共感することができる。もう少し親切にできたはずなのにとか、私の方からもお訪ねできたのにと、その時、十分慰め励まして差し上げられなかったことを本当に残念に思う。

 お話の最後に、お母さんは持っておられた美しい青い色の風呂敷を解き、涙ぐみながら中から赤と金の模様の裁縫箱を取り出し、昌子さんの形見だと言って私に下さった。夫を戦争で亡くされ、一人で育ててきた娘さんも原爆で失い、お母さんの心はきっと崩れそうになっていたのではないか。頂いた形見の裁縫箱は悲しみのシンボル。しかし、私には希望のシンボルになった。この裁縫箱は、その後、長い間続いた私の海外生活に希望のシンボルとして共にいた。

 あの時の昌子さんのお母さんの姿を見て、「この世に二度と戦争の繰り返しがあってはならない」と、私は強く自分に誓った。あまりにも多くの悲劇を身近に感じた私だった。言葉にならないほど悲しく、寂しい、失望された昌子さんのお母さんの後ろ姿は、今でも私の目にはっきりと刻まれている。戦争がこの方の幸せのほとんどを奪って行った。登って来られた牛田山から市内の自宅へ帰られる道は、遠く長いだろうと思った。見送る私は、どうぞ慰めがありますようにと祈った。

     戦災孤児

 原爆が投下されて数カ月経った晩秋、そろそろ寒くなりかけていた。焼け野原になった広島駅の前には孤児がたくさん集まり、薪を焚いて暖を取っていた。洗顔しない生活と煤で顔は真っ黒。身に着けた服も汚れたまま。その光景は「あわれ」そのものだった。もしその一人が私の弟だったらと考えると、やり切れない思いがした。学校の行き帰り毎日この子たちの姿を見て、私の心はいつも声をたてて泣いた。こんな状態で生きている子どもが目の前にいるのに、私は何もしてあげられない。自分が情けなくなった。あの子たちを連れて帰ってみてあげることができるか、母に尋ねたことがあった。母は、心情的にはみてあげたくても、今の状態では難しいと答えたが、どの家庭もわが家と似たような状況にあったのではないだろうか。当時、誰もがその日生きるのに精いっぱいであった。

 駅前の子どもたちが置かれた窮状を見る度に、何とか早く市がこの子たちの救済を計画してくれないものかと願った。幸いに広島駅のすぐ裏に、乳児院と児童養護施設を併せ持った広島修道院という児童福祉施設がすでにあり、その年の十月には宇品に新生学園(現在は東広島市)、二年後には似島に似島学園が設立されるなど、戦災孤児を保護救済する動きが急速に進んだ。このような中で私がかかわりをもったのは、江田島にできた乳児施設だった。所属していたYWCA活動を通して度々訪問し、楽しく赤ちゃんたちとかかわった。しかし、この幼子たちがこんな苦難を背負わなければならない何の罪があったのであろう。やはり、ここでも戦争というものが引き起こした大きな罪を目撃し意識させられた。この子たちの純真な心を切り裂いたのは、まぎれもなく戦争である。

     隣家のスミちゃん

 隣家のスミちゃんの家族は、お母さんと妹さん、それにスミちゃんの三人だった。お父さんは数年前に病気で亡くなっていた。兄弟姉妹の多かった私の家族と比べると、寂しい三人暮らしだった。スミちゃんは私より二、三歳上で、八月六日は市内にある女学校へ出掛けた。ちょうどその日は親戚に不幸があり、お母さんも朝早く市内に出掛けて行かれた。数時間後、スミちゃんは半身火傷の状態ではあったが無事に帰宅してきた。しかし、家は誰もいない空なのでどうしようと戸惑ったのであろう。わが家に火傷姿で現れた。私の母は「スミちゃん、よく帰ってきたね」と、スミちゃんが帰ってきたことを心から喜び、お母さんが帰られるまではちゃんと手当てしてあげるから心配しないようにと、スミちゃんを慰め励ましていた。

 むろん、スミちゃんが一番受け止めてもらいたかったのは実のお母さんだったであろうが、その状況で頼れるのは私の母だけだった。私の母に手当てしてもらい、みんなから励まされたスミちゃんは、目を真っ赤に腫らして最期まで帰りの遅いお母さんのことを気遣った。スミちゃんが唯一の頼りに帰ってきて、会いたくて会いたくてたまらなかった恋しいお母さん。そのお母さんは、朝出掛けたまま、二人の子が待つ自宅へ帰って来られることはなかった。恐らくお母さんは親戚へ向かう途中で被爆し亡くなったのであろうが、ご遺体すら捜し当てることはできなかった。亡くなられる時、お母さんは何を思い考えられたであろう。二人の子の母となった今、スミちゃんのお母さんのことを思うと、私の胸は変わることのない痛みを覚える。

 私の母はスミちゃんをわが子のように看病した。「おばさん、死にたくない」と死を怖がっていたが、なかなか帰って来られないお母さんを気遣いながら、お母さんの帰宅を待つことが生きる力となっていたようだ。「頑張ろうねえ」と声を掛ける私の母にも支えられて、スミちゃんは本当によく頑張った。しかし、四、五日経つ頃から、衰弱が目に見えてきた。当時、経験的に「死が近い」ことを示す徴候とされていた斑点が、スミちゃんの体全体に現れはじめた。彼女は、最期までお母さんに思いを馳せながら亡くなった。私の母の懸命な看病も、スミちゃんの命をつなぐことはできなかった。スミちゃんを最期まで看取った私の家族は本当に辛い思いで見送った。

 五歳だった妹さんは、親戚に引き取られて行ったが、この家族も戦争が崩壊させた。

 八月六日という日、いや八月六日の午前八時十五分という一瞬と言った方が正確であろう。その一瞬が、私の大切な友人のほとんどの人生に突然の終止符を打った。当時広島市に居合わせた人々の多くも、また私と類似の経験をしておられるのだろうと思う。

       原爆写真のあの人は

 いったい誰が、また何が、そしてなぜそうさせたのだろう。私はこれらのことを深く考えるようになった。八月六日に登校したクラスメートのほとんどは全滅。自宅へたどり着き、親や家族に看取られて亡くなったのはほんの少数である。多くは道端で誰にも知られず、手当てを受けることもなく一人で死んでいった。まさに魂の尊厳を持った人間としてこれ以上の悲劇はない。

 有名な原爆写真の一つに次のような一シーンを激写したものがある。画面には一本の木も映っていない。破壊し尽くされた街の風景である。その見渡すかぎりの焼け野原を背景に、女子学生が一人立ち尽くしている。誰か行方が分からなくなった人を捜しているのであろうが、混乱の中で当惑している。そんなメッセージが見る人に伝わってくる一枚である。これは紛れもない原爆が投下されたその日の実録写真である。

 この女子学生が身に着けているのが女学院の制服。目を凝らして見ると、それは私のクラスメートだったKさんではないか。そういうふうに最近思うようになった。海外にいて確かめる術もないが、この写真が撮られた後のKさんの行方はどうなっているのだろう。

     母のこと

 母も女学院の卒業生(高女二十七回)であった。当時の女性としては最高の教育を受けたといえるであろう。キリスト教主義に基づく教育でもあった。身内を褒めるのは少し気恥ずかしいが、心が広く、芯の強い底力のある立派な母だったと思う。周りからは近代的なモダンな人とも言われた。一方、士族の娘として育てられ、凛とした品性を備えた典型的な良妻賢母であった。早く夫に死なれ、八人の子どもを毅然として立派に育て上げた。

 早過ぎた夫の死以外にも、母の人生は度々の不幸、不運に遭遇した。その第一は何といっても度重なる戦争の時代を生きたことと原爆の体験である。長男が戦病死、自らの原爆症との闘い、年老いてからの末息子の死などである。名家に生まれ、女学院で高等教育を受け、誇りと生きる底力というものは身に付けることができていた。辛い時も、母はいつも前向きで、物事をプラス思考で捕えて行動する人だった。女学院時代のキリスト教教育がそうさせたのか、自分のことは後回しにして他の人の幸いを優先していた。しかし、その生き方が母を幸せにした面がある。多くの悲しい出来事を通して身に付く勇気とか強い心、被爆後のゼロの状態にあっても灰の中から立ち上がる力も持っていた。父亡き後、母はまさに私たち家族の生きるモデルであり、また最高の師であった。クリスチャンだった母は、祈りの中に大きな強さと慰めを与えられた。戦争には絶対負けない、「勝つ」と言っていた母だった。むろん、それは大東亜戦争に勝つという意味ではなく、自己の戦いに克(か)つということだった。自己教育、自己成長を通した発展、つまり恐ろしいあの日の経験をプラスに受け止め、自分の成長につなげた立派な人間づくりを意味していた。私たち兄弟姉妹にも、自己の立派な人間づくりへ向けて克たなければならない、平和のために克たなければならないと言っていた。

 母は八十八歳で亡くなったが、最期まで望んでいたのは平和だった。人生の経験がそうさせたのだと思う。母たちの世代が生きたのは多くの問題を抱えた時代だった。しかし、その晩年は平和な生活を心から楽しみ、恵みの上に恵みが重なった祝福を受け、安らかに去って逝った。母の人生は、次の讃美歌がまさに雄弁に歌っている。

     いつくしみ深き 友なるイエスは
     われらの弱きを 知りて憐れむ
     悩み かなしみに 沈めるときも
     祈りにこたえて 慰めたまわん (讃美歌 三一二番)

       平和と相互理解への誓い

 心の拠り所を探して真実を求め、私は多くのことを経験した。私の求めたものに対する答えは、ミッション・スクールである母の母校、広島女学院と家庭での教育から与えられた。私が原爆から生き残ったのは偶然ではなく、きっと神さまが私の人生、生き残った私に特別の使命を授けられたのだというふうに感じた。そのような意識の流れの中で、私はごく自然にソーシャルワーカーになりたいと強く思うようになった。

 以来ずっと、私は幼友達の堪ちゃんや親友だった昌子さん、その他のクラスメートの死を決して無駄にしてはいけないと考えてきた。むろん私は名もないほんの小さな石の一つでしかない。しかし、米国オレゴン州ユージンというこの地に立って、人生の最期まで平和と世界の調和を呼びかけたい。「ノーモア ヒロシマ」と呼び掛けたいと思っている。

 被爆から六十年経った今、過去の敵を憎むのではなく、母のようにポジティブに、戦争そのものに反対すべきだと考えている。実際に戦争が巻き起こした多くの悲劇を知る私たち世代が、平和のために立ち上がる使命を担っているのではないだろうか。

 自分の歩んできた道を振り返ると、そこにキリスト者としての信仰と教育の重要さを改めて認識させられる。また同時に、私たちを励まし続け、支援してくれた広島女学院があった。寛大な奨学金にも助けられた。そして、信仰に支えられ、私たちの多くが国内外に高等教育の機会を求めて目指し、社会貢献に熱い思いを燃やす専門職となった。現在、この人たちはそれぞれの分野を通して「世界の平和」にかかわっている。日本国内のみならず、さまざまな所で国際的に活躍している。みんな広島女学院の卒業生で、原爆を経験し、文字どおり灰の中から立ち上がる勇気を得た人たちである。

     人生の途上で ― ウィスコンシン大学留学と出会い ―

 ここで自分のことに少し触れ、平和について、人と人との相互理解について、そして決して戦争はしてはいけないという私の信念を述べたい。

 私は中学校、高等学校、大学は英文科に通い、女学院で十年間キリスト教主義教育を受けた。卒業後、市内の国泰寺中学校で英語教師を数カ月務めた。間もなくかねてからの願いがかない、奨学金を得てウィスコンシン大学大学院へ留学。ソーシャルワークを専攻し修士課程を修了することができた。その間、広島から女子留学生が来たと評判になり、多くの団体からスピーチを請われ、いつも「広島と平和」というテーマで自分の経験と願いを訴えた。多くの人が私の話に涙を流して耳を傾けてくれた。

 私が苦労して卒業論文に取り組んでいる時、最近若くして経済学で博士号を取得したダイナミックな韓国人教授、桂(けい)鳳赫さんがキャンパスに現れた。同室の学生からいつも彼のことを聞かされた。苦労して修士論文を書いている私には、若くして博士号を取得した桂さんが少し羨ましくも思えた。何度か直接会って話すチャンスがあったが、なぜか彼は私の日本語に「惚れた」ようだった。

 桂さんは、当時エリート校として最も名高い京幾中学校の出身だった。当時の韓国では教育は日本人教師により日本語で行われていたため、桂さんは流暢な日本語を話せた。従って、女性が使う礼儀正しい表現もよく分かっていたらしい。彼は日本語に惚れたというけれど、その日本語を使ったのは私だった。私は日本語という美徳に救われた。

     ワシントン、マニラ、そしてソウル

 九カ月の付き合いで、私たちは共に人生を分かち合うことを誓い、多くの人から祝福されて結婚。その後、夫がIMF(国際通貨基金)で経済学者として働くことになり、私たちの新婚生活はワシントンで始まった。

 私も専門を生かしてファミリー・カウンセラーとして働き、その間長女と長男が誕生。この数年間は生活が大きく転換した時期でもあった。夫の勤務が国際機関であったため、多くの国際人と知り合い、友人ができ、当然生活全体も公私両面で国際化していった。国際的に活躍する多方面の人々との親交を通して、私自身も国際的な視点から物事を捉え考えるようになると共に、いろいろな国の人々と出会い、多くのことを学んだ。約七年間のワシントン勤務の後、マニラに本部を置くアジア開発銀行に移ることになった。アジア諸国の経済発展を目的とした国際機関である。夫は理事として地域の発展途上国のために大いに貢献し活躍した。一方、マニラ時代の私はフィリピン女子大学大学院で教鞭を執る機会を得ることができた。その間、広島女学院の卒業生、田中チカ子さんと岡田(瀬戸谷(せとや))典子さんのお二人が相前後してソーシャルワーク専攻の院生として留学してきた。お二人とも優秀で、むろん私はこの後輩たちのことをとても誇りに思った。

 十四年間のマニラ時代に子どもたち二人も成長し、それぞれアメリカで教育を受けた。現在ニューヨークに住む長女は夫と息子との三人暮らし、毅坿慙△寮賁膺Δ箸靴導萍している。長男も二人の子に恵まれ、幸せに暮らしている。幼い頃、「おばあちゃんが病気したら、ぼくが治してあげる」とよく言っていたが、彼はその言葉どおりに医学の道を選び、内科専門医として精力的に活動している。私たち夫婦もかわいい孫三人を持つ身となった。

 子どもたちがアメリカに移った後も、私たち夫婦のマニラ滞在は続いた。夫が勤務したアジア開発銀行には婦人会があり、私はその会長を務めることになった。私は将来を嘱望される若者のための奨学基金創設に力を注ぎ、設立を実現させることができた。若い頃、高等教育のほとんどを奨学金で支えてもらった感謝の気持ちを形にした結果になった。現在も数百人のアジア人男子学生がこの基金の恩恵を受けており、基金設立へ向けた貢献については、我ながらよくやったと結構誇りに思い満足している。

 フィリピンで十四年間過ごした私たちは夫の母国、韓国へ帰国することになった。夫の母国とはいえ、私にとって初めて住む韓国。言葉もあまりできず、生活様式とてよく分からない。また、日本人の妻であるという問題もありはしないかなど、さまざまな不安が頭をよぎった。それやこれやで準備という準備もできていない私だったが、不思議とやっていける自信があった。それまでフィリピンで十四年間生活した経験を通して、私はアジア人としての自己像をしっかり身に付けていたのだと思う。

 やはり教鞭を執ることになったソウルの梨花女子大学大学院では、教授陣の中で多くの友人ができ、これが韓国での生活に適応する上で大きな助けになった。日本時代に教育を受けた年齢層は、間違いなく流暢な日本語が話せた。それも格調の高い日本語であった。「按(あん)ずるより産むが易し」とはこのことか。日本語の上手な人に出会うと、私はただただ感心して耳を傾ける思いだった。

 フィリピンを発つ前、韓国人の友人数人が私が日本人であることを心配してくれたが、二十年間韓国で生活して嫌な思いをしたことはただの一度もなく、むしろ敬愛されたと思っている。私にとって、韓国は第二の母国。大好きな国である。長い歴史、豊かな文化と伝統の国でもある。韓国の人は人間性にゆとりがあり、寛大な国民性がある。優秀な人も多く、私は立派な人格を持った人にたくさん出会った。親しくなった女性のほとんどは国を代表する立派な女性たちで、私はそのことを心から誇りに思っている。

 母国に帰った夫はいろいろ重要な地位に就き、それまでの国際的経験を生かし、実力を発揮して活躍した。教鞭の傍ら、私は女性のエンパワーメントに関するボランティア活動に参加した。韓国での生活は、私の人生が最も輝いた時代の一つとなったと感じている。人間関係においても多くの人を知り、交わりを深め、成熟した絆ができた。偏見はなかった。偏見とは無知からくるもの。人間に関する知識と理解しようという気持ち、人間関係の絆があれば、偏見は生まれないと私は信じている。

 韓国での実り多い二十年間の暮らしは、アジア人としての私の意識を一層強めてくれた。同時に、私たちもそろそろ引退、第一線を後進に託す年齢になった。子どもたち二人もそれぞれ立派に独立してとてもよくやっている。老いてくる私たち夫婦を心配し、私たちの考えに賛成してくれたからであるが、その子どもたちの近くで過ごすことにした。

 考えてみると、これまで仕事しか知らなかった夫。子どもたちが遠くにいる生活は寂しい時もあった。また、孫たちにとって、祖父母の存在には大きな意味がある。愛国者である夫にとって、母国を離れることはとても辛かったのではないかと思う。二つの国際機関を通して、発展途上にあった母国、韓国の経済発展に大きく貢献した人であった。私たち夫婦が韓国で過ごした年月は、「輝く高麗の空に花が咲く」という表現がもっともふさわしい実り多い輝ける一時代だった。結局、息子の住むオレゴン州ユージンという街に移り住むことにした。今ではよい決断であったと思っている。

     アジア人としてのアイデンティティー

 ここで、フィリピンでのある経験に触れておかなければならない。おそらく生涯忘れることのないできごとである。

 フィリピン女子大学大学院で私はソーシャルワークを教えた。この大学院は、厚生省から送り込まれる優秀な人材を受け入れることがよくあった。その一人Aさんは二十代半ば。よく「目から鼻へ抜けるよう」だと表現されるが、Aさんは非常に聡明で立派な体格の女性だった。ただ、左腕のひじから先がなかった。私は、事故で怪我されたくらいに思い、特別に気にも掛けていなかった。

 ところが、ある日の試験の答案用紙に次のような添え書きがされているのに気付いた。「先生にお会いしたい。私の腕は五歳の時、日本兵に切られた」。この短いメッセージを読んだ私は、その場で卒倒しそうだった。なんと惨いことをと思うと、涙が止めどなく流れた。

 フィリピンでの日本兵の残虐な行為はそれまでにも度々耳にしていた。それは戦争という異常な状況で起きたことと考えることで、ある意味で仕方のないことだと自分の中で折り合いをつけていた。しかし、私はその時、日本兵の残虐行為を目の前にしたのである。しかも、その犠牲者は私の学生。早速に連絡して会うことにした。

 沈痛な表情をして私の研究室へ入ってきたAさんは、私に出会うまでは日本人には怖くて近寄れなかった、しかし、私と出会ってその恐怖心が薄らいでいくのを感じ、答案用紙に書く勇気も出たと、泣きながら少しずつ自分の辛い経験を話し始めた。「私が五歳の時、突然日本兵が家に入ってきて、何か日本語でしゃべった。そして、私を引きずり出し、若い日本兵が腕を日本刀で切った」。そう話すと、その時の光景と恐怖が蘇ったのか、Aさんは私の前で泣き崩れた。私は圧倒されて言葉も出てこなかったが、気持ちを取り戻して「泣きたいだけ泣きなさい。終わるまで待つから」と、声を掛けるのが精いっぱいだった。どのくらい経っただろうか。やがて落ち着きを取り戻したAさんは、「先生、すみません」と詫び、それまで耐えてきた悲しみや寂しさ、日本や日本兵に対する憎しみ、そして障害があるゆえの苦労など、全てを吐き出した。冷静さを取り戻した私も、改めて日本兵のしたことを心からAさんに詫び、そして私たちは抱き合って泣いた。Aさんはもちろんのこと、私も戦争という恐ろしい行為の被害者で、同じ人生の舟に乗っていたのだろうか。

 話し終えると、Aさんは「先生、ありがとうございます。もう大丈夫です。私の問題は、今日、先生にお会いして解決しました」と言って、研究室を出て行った。入ってきた時の堅さはすっかりなくなり、あたかも生まれ変わったかのような穏やかな表情だった。荒波にあおられ、沈みかけていた私たちが乗っていた舟は、灰の中から立ち上がり、平和ヘと向かって動き出した。私はそのように感じた。その時の私の研究室には神の聖霊が満ちていて、私という小さな存在がいかに大きな意味をもつ存在であるかということを強く感じた。

 これは、私がフィリピンに移り住んで初めて直面した葛藤であった。私自身がかかわりもしない日本兵が犯した残虐な罪。それを何者でもない私が代表して詫びなければならないのか、しかし私は紛れもなく日本人である。反面、その私が一人の犠牲者であり被害者の魂の平安を取り戻す手伝いができたのも事実であった。私はとても複雑な思いがした。このような立場に立たされた時、あなたはどのように対応するだろうか。アジアに暮らす日本人は、多かれ少なかれこのような体験を余儀なくされる。自分の存在の意味が問われる経験でもあるが、母国では経験することのない「自分は誰か」という問題、つまりアイデンティティーの危機に直面し、その経験の中から日本人として、アジア人としてのアイデンティティーを明確に意識するようになるのだと思う。Aさんとの強烈な出会いを通して、私はそのことを確信した。

 その時期、相前後してマニラにやってきた広島女学院大学卒業生お二人は、それぞれ留学生としてフィリピン各層の人々とかかわり、お互いの和解のために大きな役割を果たし貢献した。

 わたしは、このAさんとの出会いはぜひ知っていただきたかった。原爆を体験した私たちの多くは、被害者としてのアイデンティティーを当然としてきた。むろん、日本がアジア各国で何をしてきたか、私たちの多くが知らされてこなかった歴史教育にも問題があった。しかし、多くを知った今、犠牲者を出したのは日本だけではない、戦争はアジア地域の国々に理屈では説明しがたい犠牲を強いてきた。Aさんと私は、過去の悲劇の辛さに縛られるのではなく、将来に向かって努力しましょうと、励まし合って和解を果たした。

 加害者の論理は、被害者や犠牲者に対しては通用しない。「戦争中の出来事」という理屈は許されないのである。

 戦争中であってもしてはならない、人としての道徳があるのではなかろうか。この兵は、ここでいう「人としての道徳」を守りきることができず、幼い子を傷付けた。しかし、彼女のもつ信仰、勇気、そして生きる力、つまり彼女の魂の部分は、その行為をもってしても奪うことができなかったのである。

       平和の道

 原爆で多くの友人を亡くし、多くの死を目撃した当時十三歳の私は、多くの疑問を感じても理解するまでは至らなかった。しかし今、私は次のように自分自身と折り合いをつけている。それは、原爆のことも、フィリピンにおける日本兵の残虐行為も、決してアメリカが悪い、日本が悪いというレベルの問題ではない。戦争そのものが悪いのであり、戦争が人の理性を奪い、人を残虐な行動に走らせ、それが被害者、犠牲者に不条理な死や苦しみを強いるということである。

 二十一世紀は国際化の時代である。貿易の自由化、外国投資の自由化、文化の自由化など、世界の経済発展が叫ばれている。私は、その発展が人間関係と調和してその絆が人間発展にプラスに働いてほしいと思う。その最終目的はむろん人類に平和が来ることである。そのためには、人種、国籍、宗教、文化などの違いを越えて、人類みんなが調和して努力しなければならないと思う。

 今、世界で核兵器撤廃へ向けた努力が真剣に行われている。それは身近で使用される可能性があるからであるが、核兵器が使用されれば、もう人類には破滅しかない。将来も発展もないのである。だからこそ今、私たちが立ち上がり反対しなければならない。これは今日の私たちに突きつけられた挑戦である。

       おわりに

 七十三年という私の人生。過去の年月を振り返ってみると、これまで全ての経験が今日ある私をつくりあげてきたことを改めて感じている。それら全てが私の人間づくりの糧となり、人生の目的をはっきりと教えてくれた。それは若い時に心に誓った「平和の道」に向かって最善を尽くすことだった。原爆で犠牲となった学友たちへの約束でもあった。

 もう一つは母が自らの生き方を通して教えてくれた「人生はポジティブに渡ること」「生をよく生きる」という指標である。

 誕生日を祝ってくれた孫たち。私はこのかわいい孫たちの世代にも平和が続きますようにと祈りたい。

 最後に、戦争を知らない若い世代の人たちに、私たちの世代を代表して次の言葉を人生の指標としてお伝えしたい。

 No More Hiroshima and World Peace.

 この経験が今まで私の人生の導きとなった。

・・・七十三歳