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《平和を祈る人たちへ》
ヒロシマを語り続ける

サーロー 節子(旧姓 中村)
高女五十六回・大英二回、カナダ・オンタリオ州在住

 昭和二十年八月六日、私は十三歳で中学二年の動員学徒だった。私たち一部の生徒は爆心地から一・八キロメートル離れた第二総軍司令部で、敵の暗号を解読する作業の初日であった。

 私たちは八時十五分、木造建築の二階にいた。ちょうどその時、柳内少佐が、「天皇陛下のために最善を尽くして、与えられた任務を全うしろ」という訓示を終えられたところだった。その瞬間、窓全体を覆う青白いマグネシウムのような閃光(せんこう)を見た。私の体が宙に飛ばされ、浮流していた時までの記憶はある。真っ暗闇の静けさの中で私が意識を取り戻した時に、破壊した建物の梁(はり)の下敷きとなって身動きできない状態にあることが分かった。奇妙なことに、死に直面している私に心の動揺はなく、平静に祈った。そのうちに「お母さん、助けて」「神様、助けて下さい」というクラスメートの微かな声が聞こえてきた。安藤さんの声は今でも聞こえてくる。突然、私の左肩をつかんで、「あきらめるな。体を動かし続けて早く逃げろ。自分が助けてやるから。左側に光線が見えるだろ。それに向かって這い出せ」と、軍人さんらしき人が命令した。

 やっと崩壊した建物を這い出した時には、建物は既に猛火に包まれ、私の周囲にいたほとんどのクラスメートはその下敷きになり、焼死した。兵隊が「這い出た者は、早く二葉山へ逃げろ」と命令した。爆弾が投下されたのは午前中のことだったのに、周囲を見回すと暗闇の中を、市の中心から二葉山へ逃げている人々の行列を見た。人間とは思えない、幽霊のように足を引きずってゆっくりと歩いていた。よく見ると髪の毛は逆立ち、肢体は傷つき、裸に近く、焼けた爛(ただ)れたボロボロの服、中には全裸で赤黒く焼け爛れて腫れ上がり、目玉が飛び出している人もいた。皮膚と筋肉が骨からぶら下がり、火傷の痛みを少なくするために、胸の高さに手を上げてノロノロと歩き続ける人たちは、無声映画のスローモーションのイメージのように思えた。その人たちは折り重なって倒れ、再び立ち上がることはなかった。二、三の生き延びたクラスメートと共にその行列に加わって、死体や瀕死の人々を踏まないように注意して、二葉山に向けて歩いた。

 二葉山の麓には東練兵場があり、そこは小声で水を求めて呟く瀕死の怪我人で埋まっていた。「水を、水を」と求められても、バケツもコップもなく、兵隊たちがそれらの人々に水をあげることを禁じた。水を飲むと早く死ぬるという理由だった。医師、看護婦も見つけられなかった。私たちは近くの小川で血を洗い、そして破れた衣服を裂いて水に浸し、水を求める人たちの口を湿してあげた。その人たちは、チューチューと音をたてて必死に水分を吸った。私たちは終日その作業をした。夕暮れには山の丘に座って、山積みの死体を見ながら、死にあえぐ人たちのうめき声を耳にしながら、広島全体が焼けるのを無感動で眺めた。

 街の中心では七、八千人の中一、中二の学徒たちが、市中全校から動員されて家屋疎開の作業に当たっていた。私たちの女学院一、二年、数人の先生を加えて三百五十一人ばかりが、そこで即死、跡形もなく蒸発した。多くは火傷で膨れ上がり、お互いの声だけで相手が誰か分かったと聞いた。私の従妹、女学院一年の難波時子も、私の義姉で、その年できたばかりの広島女子高等師範学校から山中女学校の監督として作業していた人々も、二度と目にすることはできなかった。

 私の親友、村本節子もその場で働いていたが、幸運にも生き延び、多くの友人の生命の最期を目撃し、生き残った私たちにその時の状況を話してくれた。皆で泥水を飲みながら、数学の米原睦子先生の勧めで円状に集まり、小さな声で讃美歌を歌ったと言った。その讃美歌の一つが『主よみもとに近づかん・・・』(讃美歌三二〇番)で、歌いながら一人一人死んでいった。米原先生が、「歩ける人は一緒に日赤病院へ参りましょう。私の肩にもたれて下さい」と言われたので、村本さんは先生の右肩に手をやると、ズルっと皮膚と筋肉が取れて肩の白い骨が見えた、と報告した。病院には既に助けを求めて来た人たちが、廊下にも庭にも一寸の余地なく横たわっていたとのこと。数日後、米原先生はこの病院で治療も受けられずに息を引き取られた。

 幸いにも私の父は、宮島近くの海で趣味の魚釣りをしていた。きのこ雲を見てすぐさま、崩壊した自宅まで徒歩で帰り着いたものの、午後二時頃、大火が転火したらしい。母は火事になる前に、壊れた家から這い出した。しかし、私の姉は疎開先から前夜帰宅して、あの瞬間に四歳の英治を連れて眼科病院へ行くため、柳橋で真っ黒焦げに焼かれ、一日後に私が二人を見たときは、平常の面影はなかった。二人は一週間ばかりの間、水を求めながら、焼け爛れた身体から悪臭を放ちながら、ついに死によって苦しみから解放された。軍人たちは土を掘り、死体を投げ込み、ガソリンとマッチで死体を焼いた。竹ざおで体をひっくり返しながら、「まだ腹が完全に焼けていない。腸もまだだ」とつぶやいていた。両親と十三歳の私はそこに立ち、涙もなく無感動に眺めていた。人間の尊厳も何もあったものではない。虫けら同様に短い人生を閉ざされたのであった。後日、私の友人が告げてくれたことによると、翌日、彼女の家の焼け跡に行って、家族全員の白骨を見たときは、涙も出なかったということだ。

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 私は長年この記憶で苦しんだ。しかし一人の米国精神医の研究によって「精神閉鎖、精神的無感覚」という新語で、極限の状態で認識力は存在しても心理的反応が減少し、適切でなくなるということだった。この説は私の心の傷を癒してくれた。原爆は恐ろしい熱風で街を、人間を焼き殺すのみでなく、放射能というかつて人間の経験したことのない破壊力をもたらした。私の家族や友人の間でも、多くの人々が放射能のためにだんだんと死んでいった。紫色のあざが体に出ると死の予告だということで、その頃の毎朝、恐る恐る体を調べたものだった。私の叔父と叔母は牛田に疎開していて何の傷もなかった。しかし、二週間後から紫の斑点が出はじめ、間もなく死んだ。彼らの世話を最期までした私の母の言葉を借りると、「彼らの内臓は腐敗して溶け、黒いドロドロの液体となって出て来た」。

 私は女学院大学を卒業した年の夏に、米国の大学から奨学金を受け、渡米した。その年の三月一日に米国の水爆実験がビキニで行われ、島民が殺傷され、日本人には魚の補給がなくなり、環境破壊、おまけに日本人船員たちの死傷があり、一大事件として騒がれていた。目的地に到着するや記者連に囲まれ、この事件に対する私の意見を求められたので、正直にはっきりと私の考えを説明した。早速、大学の私の郵便箱には無名の脅しの手紙が来るようになった。

 この経験は、被爆者として米国での私の責任は何であるのか、身の安全のために口をつむぐか、あえて公式の場でも発言を続けるか、恐怖と孤独感で数日間苦しんだ。結果として、自分がヒロシマを語り続けることが私の使命であり、責任であり、学生や家族を犬死させないだけでなく、核時代の到来の意味を世界の人々と共に語り合い、核兵器廃絶の目的に向かって運動すべきだという自覚を強くした。

 私たち被爆者は、核兵器を、人類と共存できるはずのない許されざる悪と考えている。核兵器には人類と文明を滅ぼす可能性があるからだ。近代の核兵器は最初に広島に落とされた爆弾の何千倍もの威力を持つからこそ、私たちは核兵器の全廃を強く求めている。それは理想であり、未熟な者の考えだと言う人もいるだろう。でも、今日では、核兵器開発に必要な技術的知識や経験を持つ軍事関係者さえも核兵器撲滅を支持している。

 奴隷解放、植民地主義の終わり、アパルトヘイトの終焉、アメリカの女性解放運動・市民権運動など、過去における偉大な社会改革の動きを思い起こしてみよう。これらの運動は最初、数人の志から始まり、人々からの嘲笑を受けながらも、ついには、打ち勝ってきた。これらの運動と同じく核兵器撲滅は、私たちの子どもたちや子孫に未来を保障するという倫理上の問題に基づいている。

 私は、高校生のとき、世界教会会議の報告書を読んだことがある。そこに書かれている平和の定義を読んで、強く衝撃を受けたことを覚えている。それは、「平和とは全ての人に正義をもたらそうとする努力の過程なのです」。

 広島の平和公園に、「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」と書かれた慰霊碑がある。何の過ちで誰の過ちかは、あえて記されていない。アメリカを非難の矛先にしたいと思う人もいるだろうが、私は、広島の市民の皆さんがこの問題をより崇高で、哲学的な水準でとらえ、すべての人が求めるものは、暴力や戦争の恐怖から開放される文化的な変革としていることにとても満足している。

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 「過去を覚えるものは未来のために働くものである。広島を覚えるものは平和のために働くものである」。これは、今年召天されたローマ法王パウロ鏡い、広島を訪れたときに残された言葉だ。

・・・七十三歳