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《平和を祈る人たちへ》
絵本「My Hiroshima」が生まれた経緯

森本 順子
高女五十六回、オーストラリア在住

 あれから六十年。生きたと言うより、生かされてきたとの思いがある。ミラクルとしか言いようがない条件の重なりが、十三歳だった私の生命を守ってくれた。

 被爆の翌年の夏、あの原爆ドーム・・・。当時の産業奨励館。何かを訴えるように焦土に建ち続ける満身創痍(い)の姿を、のめり込むようにスケッチに通った。今思えば、この時点で、絵本『My Hiroshima』をつくる方向がスタートしていたのではないか、無意識のうちに。

 その後、美術の道に進み、何度か被爆体験を油絵にした。しかし、あの現実には及ぶべくもなかったし、展覧会が終われば、それっきりお蔵入り。虚しい限りであった。

 五十歳! 人生のターニングポイント。あと十年を賭けて豪州に渡った。若干二十歳になるやならずの息子の叩いた扉で、幸運にも大手出版社の有名な編集長A・I女史と出会うことができ、想像だにしなかった「絵本」の道に入った。かつて私が教職にあった頃の同僚で親友のYさんは、「被爆体験を次世代に伝え残すように」と、常々私をプッシュし続けてきたが、「時こそ来たれ!」と資料などを送ってくれ、励ましてくれていたのに、突然の訃報。彼女との約束を未だ果たしていなかった・・・。後悔と共にやっと腰を上げた私を、A・I女史はしっかり受け止めて下さった。

 この仕事の辛さは、容易ならざるものであった。皮膚を指先からぶら下げた女学生は、自分がもし疎開作業に行っていたらこうなっていただろうと、自分をモデルに描いた。しばしば、涙なしには描けなかった。Yさんの死が私に力を与えてくれた。かくて、絵本『My Hiroshima』は出版された。翌年、帰国し、Yさんのお仏壇に絵本を供え、間に合わなかったことを深く詫びた。

 ところで、昨年、NHKで「遠くにありて日本人」のドキュメンタリーの取材を頂いた時のこと。既にリタイアされているかの編集長A・I女史が、述懐された言葉に驚いた。あの絵本をつくるに当たって、何度も編集会議で討論をし、遂にはロンドンの本社の社長を説得されて、やっと出版が実現したという陰の経緯を、私は全く聞かされていなかったのである。もめた理由の一つに、昔の敵国であり、英、豪の捕虜への虐待問題などが挙げられたそうだが、「人類として、子どもたちに教えていくべきだ」という信念を通されたと言う。

 こうした素晴らしい人々との出会いに恵まれ、六十年前の一人の生き証人としてこの一冊の絵本を世に送り出すことができたのも、あの時、「生かされた」おかげというのであろう。この目に見えない偉大なお力に対し、今、改めて深甚の感謝を捧げる次第である。

・・・七十三歳