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《平和を祈る人たちへ》
原爆の後遺症と戦いながら

佐々木 陸子(旧姓 池田)
短大二回、広島市安佐南区在住

 昭和二十年八月六日は、比治山女学校の中学一年生だった。当時はほとんど勉強はなく、建物疎開の後片付け作業だったが、警戒警報の大きなサイレンが鳴り響いたため、途中から学校集合となった。掃除を済ませ教室内で休憩をしていた時であった。異様な光がパーッと全体に光った、と思ったら続いて校舎が揺らぎ、大きな音と共に砂埃が教室全体に舞い上がった。しばらくして、砂埃も収まったので顔を上げたら、無意識の内に自分の両手で目と耳を押さえて机の下にしゃがんでいた。学校に爆弾が落ちた、と瞬間思った。

 恐る恐る教室内を見渡すと、隣の教室と黒板が外れ、天井が剥(は)がれてぶら下がっている。窓ガラスが吹き飛んでいる。隣にいた山中さんがガラスの破片で顔を切り、血を出している。突き刺さったガラスを抜き取り、救急箱から薬を取り出し、応急処置をしてあげた。窓の下にはガラスの破片が落ちていたが、その上を裸足で飛び降り、皆泣きながら校庭に向かって走った。国信玉三校長先生が、顔や手から血を出しながら校庭に誘導された。気が付けば、皆裸足で履物を捜しに下駄箱へ行った。下駄箱はでんぐり返り、折り重なっていた。自分のを捜すのに皆一生懸命で、やっと捜し当て、履物を履いて校庭に走った。

 見回すと一軒としてまともな家がない。屋根は吹き飛び、窓ガラスは飛び散り、家の中が丸見えである。比治山の向こう方面から白い大きな煙が雲のように大きな柱となり、ムクムク、ムクムクと凄まじい勢いで空高く上がっている。一時、学校の指示で仁保の山へ避難したが、怪我のひどい人は何人か先生におぶってもらっていた。

 しばらくして、一番近い所から帰ってもよいと指示があり、四、五人で帰ったが、現在の広大病院の兵器廠(しょう)周辺はハス畑で隠れる所がない。帰る途中、飛行機の音がしたら皆怯え、体をしゃがめて通り過ぎるのを待った。もう怖くて大急ぎで、十分余りのわが家へ走って帰った。わが家だけは無事であるようにと祈りながら家路に着いたが、自分の家も窓ガラスが皆吹き飛び、一番に目に飛び込んだのが三つ重ねのタンスがコロコロ転がっているありさま。天井は青空で、風呂の釜の中には誰が入れたのかと思うほどガラスでいっぱいになっている。柱時計の裏が浮いている。見るとテーブルの上に置いていた箸立ての中の一本が時計の裏側に突き刺さっている。茶の間のインク瓶が、廊下を隔てた八畳の座敷の畳の下に転げ落ちて、畳が浮いている。爆風でいったん吹き上げて、転げ込んだと思われる。

 阿賀の第十一海軍航空廠の舎監として単身赴任していた父は、前日の夕方休暇を取り、自転車にリヤカーを付け、飼っている鶏の産んだ三百個位の卵に日付けを書いて、近所の百姓さんから分けてもらった野菜を積み込んで、夜中の十二時に段原の自宅に帰っていた。翌朝、朝食中に両親は被爆した。二人とも無傷だった。すぐ裏が比治山で、大きな防空壕がいくつかあったので、両親はそこへ行っていた。すぐ裏に兵舎もあり、兵隊さんから「お父さんとお母さんがすごく心配しておられたから、すぐ行ってあげなさい」と言われ、その暗い防空壕の奥へ奥へと進んで行った。いつもは気丈な父が、私の体全体を撫でながら「陸子か、大丈夫だったか」と言って泣いた。

 自宅の前の同い年の(学校は違ったが)横田君が、建物疎開の後片付けに行って全身大火傷をし、「水をちょうだい」と拝むように言っていた。飲ませたら死ぬと思った親一人子一人のお母さんは、横田君が氷枕を開けて飲もうとしていたのを取り上げた。息を引き取った後、泣きながら水をガブガブ飲ませていた。私も家を出る時、「現場に行く」と言って出たので、両親は私が同じ火傷をして帰って来たと思ったらしい。

 南段原は比治山の東側になり、中心地からは比治山の陰になって焼け残った。でも、たくさんの火傷、特に、皆ズルズル全身大火傷で、顔が誰か分からない。ズル剥(む)げの体は両手をひじから前にブランと折り曲げ、皮が手の先から下に垂れ下がり、皆同じ状態で「水を、水をちょうだい」と拝むように頼んでいる。「水を飲ましたら死ぬぞ」と誰かが言った。全身ズル剥(む)げの人々が次々と山を越えて運ばれてきた。きれいなおばさんが担ぎ込まれた。お風呂屋さんの奥さんで、カマが上から落ちてきたのだそうだ。まだ目を開けて息をしておられたが、夕方亡くなられた。私の自宅から反対側百メートルくらい離れている兵器廠の広場には、何人もの方が全身火傷で、水を求めながら横に並べられていた。軍の看護婦さんが、大変忙しそうに看護しておられた。

 比治山国民学校には孤児がたくさん収容された。各町内会から当番で世話をしに行った。食事を食べさせたり、行水をさせたり、子守をしたり。五歳前後の女の子が「お姉ちゃん、お願いだから私をお姉ちゃんの家へ連れて帰って」と何べんも頼んだ。「お父さんとお母さんに相談してからまた来るね」と言い残したまま、帰って母にすぐ話したら、駄目だと言った。その子がかわいそうで、今でもその子はどうしているだろうと、時々思い出す。

 原爆の次の日、一番上の姉の嫁ぎ先の親戚のおじさんが、宮島から様子を見に来られた。的場から段原が焼け残っているので焼夷(しょうい)弾爆撃されるということで、姉の義弟(私と同い年)と私の二人を宮島まで連れて帰ってもらうことになった。段原の防空壕を出たのが夕方四時頃だった。歩いて的場に出ると、市内は一面焼け落ち、あちこち燻っていた。己斐(こい)、江波、向宇品の海が一目で見渡せ、広島はこんなに小さかったのか、と初めて知った。

 橋があちこち焼け落ちているので、線路沿いに鉄橋を渡って己斐まで出なくてはならない。枕木は間隔があり、足がすくんだ。八丁堀・福屋の電車の停留所で、兵隊さんが二十名くらい積み木倒しになって、皆死んでおられる。ゲートルだけが残り、上は火傷でズルズルである。その周辺もあちこちで倒れたままの人々。防空壕には両手をついて、そのまま全身火傷の人も。福屋の電車線路の反対側に大きな水槽がある。その中に何人かの方がしゃがんでいる。足を掛けたまま折り重なるように。全身ズルズル火傷で、あちこちで死んでおられる。福屋の地下では「助けてー、助けてー」と声がする。道端では親子三人が、赤ちゃんをおぶり、お姉ちゃんの手を引いて歩いておられたのであろう、そのままで死んでおられる。

 紙屋町辺りは、電車の鉄枠だけが残り、中でつり手を持ったまま真っ黒焦げ。もう一台も鉄枠だけが残り、入り口に両手を掛けたまま真っ黒焦げ。まさか人間ではなかっただろうか、電線に引っかかって真っ黒焦げ。タオルを口に覆ったが、臭くて息ができず、口を開けて息をしながら通った。鉄橋の枕木を震えながら何個か渡った。渡るのに足がガタガタ震え、もう引き返そうかと思ったら、真ん中まで来ている。立ち止まって川の下を見ると、あちこちで人が浮いている、それも二倍か三倍に膨れ上がって。たくさんの人である。

 十日市の辺りか、馬が横倒しになりお腹が裂け、ウキのようなのが飛び出ている。牛がつながれたまま、引っ張るようにして座り込む形で死んでいる。やっとの思いで鉄橋を渡り、己斐に出た。大型トラックが、宮島か、大野方面にどんどん走り去る。おじさんが時々手を上げて乗せてもらおうと頼む。何台かトラックが止まってくれたが、後ろの荷台を見渡し、空いたスペースが全然ないと断られる。そのうち、三人はとうとう宮島口まで歩いた。着いたら夜中の十二時だった。

 三日三晩、広島が真っ赤に燃え続けているのが、宮島からよく見えた。あんなに燃えている中を通って来たのかとびっくりした。翌日、宮島の桟橋に出て海を見ると、いろいろな種類の魚が群がり大量に泳いでいる。凄いとびっくりしてよく見ると、遺体が二倍三倍に膨れ上がって浮いている。一体だけではない。五、六体、それ以上。山中女学校と胸に書かれている。近くにいたおばさんも気が付き、「子供はあっちに行きなさい」と言われた。私はそのまま立ち去ったので、何体流れ着いたか分からない。女学院に行かれた友人の梶間さんの死を、女学院の短大に進んで初めて知った。見た者でないと分からないこの惨事。私は宮島に一週間いて自宅に帰った。

 ハエの発生がひどく、火傷して動けない人にも群がり、本人は追うことができない。食事をしている時も追いながら食べる状態が続いた。宮島から帰って一週間後くらいに赤痢にかかった。周期的に激痛が襲い、出るのは血便と粘液だけ。何も食べることができず、薬もなくて、小さなスプーンが重たくて持てないほど衰弱しきった私を助けてくれたのは、母だった。家庭医学の本を広げて見た母が、へその周辺の四カ所のツボにお灸をおろしてくれたおかげで激痛が止まり、一命を取り留めることができた。が、あれ以来、貧血がひどく、増血剤が手離せなくなった。ABCCから度々検査された。

 昭和二十二年一月三十日、父は胃癌になり死亡した。原爆の日、二番目の姉を捜しに中心地に近い所へ出て、放射能を浴びている。二十五歳で結婚した私は、主人が薬剤師だったので昭和四十一年十二月に薬局を開局した。三番目の子が二歳ぐらいの時、過労と貧血と低血圧のため、体を少しでも動かすとカラの嘔吐が激しく、一週間後やっとの思いで、約二カ月の入院となった。それから十年過ぎ、長男が高校三年、次男中学三年、長女中学二年、三男が一歳七カ月の冬、主人は四十六歳で亡くなった。私も四十六歳だった。

 あれから二十五年、子育てに一生懸命だった。お金のやり繰り、いろいろな出来事にぶつかりながら無我夢中であった。が、六十九歳で悪性の胃癌、大腸のポリープ癌、子宮内に腫瘍。原爆の後遺症なのか、今、五つの病と闘いながら、末息子が今年薬剤師の国家試験をパスしてくれればと祈る。

 振り返れば、今までのいろいろな苦労、辛かった日々、思い出せばむせび泣きになる。でも、四人の子が薬関係の道に進み、上三人はそれぞれが独立して頑張っている。今は長男夫婦と同居し、幸せをかみしめている。二度と戦争は起こしてはならないと切に願っている。平和な日の続く、人類の永遠の幸せを。

・ ・・七十二歳