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他の証言・資料 Others

《平和を祈る人たちへ》
爆風で飛んできた教壇の中に

中村 貴美子(旧姓 鍋田)
高校五回、広島市西区在住

 八月六日朝。空襲警報解除のサイレンが鳴り大芝国民学校に登校。五年生は新校舎二階にて、私は一人でバケツと雑巾を持って教室の窓よりB29の姿と爆音を聞く。 目を空に向けた時、「ピカッ」と鋭い光線が目を射る。慌てて教室を出て階段に向けて走る途中で、「ドカン」の音で目と耳をふさぎ廊下に伏す。気が付いた時は、なぜか先生の教壇の中にいました。廊下に爆風で飛んできた教壇の中に入っていたと思われるが、記憶がないので神様がかぶせて下さったと、ずっと思い込んでいた。薄黒い土埃が静まるのを待って足を一歩踏み出した途端に、「グサッ」とガラスを踏む。今でも足裏にその感触が鮮明に残っている。

 後は無我夢中で校庭に飛び出した。泣いている級友と先生、兵隊さん(古い校舎に兵隊さんたちが住人でおられた)。重傷の子は戸板に乗せられ、交代で運ぶ。腕がしびれるが、不思議と涙が出ない。私は頭に軽傷のみ(今でも左側の目、歯、頬、足、小指の線がおかしい。耳は若い時から聞こえにくいし、頭も悪い)。

 黒い雨が降った時は竹薮で休み、祇園の集会所のような所まで逃げた。途中、ボロボロの衣服をまとった人、両手の皮膚が垂れ下がった人たちが死者の行列のようにゾロゾロと歩いている。魂の抜けた数知れない人の行列が続いていた。三滝の同級生のお父さんと出会って山沿いに連れて帰ってもらったのは、夕方だったように思う。

 家では、三滝町中原集会所で小一の弟(長男)は全身ガラス傷で真っ赤となり、おまけにタライの黒い雨で体を洗ったと言う(このせいか、弟は二十代から四十九歳で死亡するまで体調が悪かった)。以前、私たち家族は材木町に住んでいたので、七月末に建物疎開で三滝に引越さなかったら、おそらく一家全滅していただろう。仮小屋で水道のない谷の一番奥だが、日当たりの良い所にいた次男(当時二歳)は頭と喉を火傷し、九月二日に死亡した。父親も半身以上の火傷で、一年は動けなかった。皮膚のウジ虫を取るのが私の仕事だった。お天気の日は山で小枝を拾ったり、草採り(食べる草、ウサギやヤギの餌)の日課があり、学校はいつ始まったのかはっきりとは覚えていない。

 わが家は当日から、入れ代わり立ち代わり、他人、知人、親類と、まるで被爆者の難民集会所のようだった。馬まで逃げて来て亡くなった。父は大火傷の体で人を捜しに町に出掛け大変な目に合っているので、私たちは当分家からは出られなかった。三日三晩の火の海は三滝の山から眺めていた。横川駅までは、おにぎりの配給とヨモギだんごの行列に並んだ覚えがある。

       私の思い

 六十歳まではまだ若いと思っていた自分が六十五歳で年を感じ、七十歳になるといつ死ぬかと思うこの頃に、原爆六十周年ということでRCCからも電話の問い合わせがあり、当時の大芝国民学校の被爆者捜しを手伝ってる。平成十三年三月には財団法人広島平和文化センター「被爆者は語る」のビデオ収録に応じたが、中国新聞に載っている記事のごとく、地獄絵を語りたくない気持ちと、生き残った肩身の狭さを子ども心にも感じていた。また、成人式を迎える年頃には、結婚に反対されるため口外できない時勢だった。振り返ってみると、子どもにも(確かなことは言えないが)影響しているかもしれないし、反対する親の方が正しかったと思う。

 心理的・精神的影響も遺伝として残る可能性もあると思っている。胎教がその一つであると私は思う。御縁があって三十年以上、身体に関しての勉強を続けているので、医学的にレントゲンなどに出なくても検査で分からない部分が多くあるように考えている。

 愚かな戦争に明け暮れしている間に、地球が自然に破滅への道に向かっている事実を聞くにつけ、大変なことになる予感は、皆が持っていると思う。「ピカドン」と言われた原爆のピカの状態も、人によって受け取り方、体への影響は全部違っているが、私は白と金色に感じました。しかし、その後、二度ほど八月六日に原爆の再現を受けた時は、一回目は紅色のピカに、二回目はドンの真っ黒でした。当日とは違っていましたが、当日はドンで失神して薄暗くなって気付いたのですが、時間は分かりません。

 女学院中学校に入ってから、大芝国民学校に転校する前に通っていた中島国民学校の同級生二人に出会いましたが、なぜか一人の人は何も覚えていないと言われ、他の一人とも話しをすることはないままに卒業してしまいました。今、生きておられたら話をする気になれるかもしれません。私は今、残り少ない人生を自分を生かしながら、何かお役に立てることをして悔いのない生活を送りたいと思っています。

(原爆の証言は感情移入をすると書けませんでしたので、簡単に書きました)

・・・七十一歳