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《平和を祈る人たちへ》
小学四年生の原爆

手島 喜久子(旧姓 吉田)
高校六回、広島市安佐南区在住

      原爆に遭(あ)う 

 昭和二十年八月、大芝国民学校の四年生であった私は、市の中心から北へ約二・三キロの住宅街の外れに住んでいた。その頃には、日本の戦況は悪くなるばかりで、食料の配給も途切れがちで、両親と女の子四人のわが家では、前の道路まで耕してトウモロコシやサツマ芋を植えて食糧の足しにしていた。畑の水やりを手伝ったりして、その夏はとくに暑かったように思う。

 その頃の学校は、小学四年生以下は家の近くのお寺などで勉強し、五年と六年生は学校で授業が行われていた。四年生の私は、家の前の畑を横切った所にある藁葺(わらぶ)き屋根の農家で授業を受け、二つ年上の姉は六年生だったので、家から約二百メートル東にある学校の方へ行っていた。

 八月六日の朝、私はいつものように防空頭巾を肩に下げて、その寺子屋の教室に行った。部屋で騒いでいると空襲警報のサイレンが鳴り、程なく解除になったので、数人の子どもたちと庭に出て遊び始めた。空は青空で日差しがきついので、私は木の陰に入り、六、七人が丸く輪になりじゃんけんをしていると、突然、物凄い閃光(せんこう)がピカッと光り、ドーンという轟音(ごうおん)と共に、凄まじい爆風に身体が突き飛ばされた。辺りは真っ暗で、灰か砂塵が舞い上がって、もう何がなんだか分からなかった。頭の上には木の幹のような物が乗っかり、空のドラム缶や板切れが身の回りに重なっていた。異様な臭いに目を凝らしてみると、さっきまで居た教室の屋根が赤く燃えていて、あまりの恐ろしさに、「お母さーん、お母さーん」と泣きながら、もがいてドラム缶や木の枝を押し退けて立ち上がった。目を凝らして周りを見回すと、足元にさっきまでじゃんけんをしていた男の子が煤にまみれ、灰色に黒ずんで横たわっていた。

 そこら中、瓦礫(がれき)が折り重なり、私はその子がもう死んでいると直感した。幸いに私は日陰にいたので火傷はしていなかった。藁屋根の教室は恐ろしい勢いで燃え盛り、背中に熱気を感じながら無我夢中で家を目指して走って帰った。横切る野菜畑は土が盛り上がり、足は靴もなくして裸足であった。家の近くまで来ると、どの家も崩れそうに傾いてガタガタになっていて、その前を人が右往左往して口々に何か叫んでいた。

 家の玄関にたどり着くと、母が額から血を流しながら飛び出して来て私を抱きしめた。ガラスが飛び散って刺さったらしい。五歳になる妹寿代と母が背に負うた一歳の節子も怪我はないようだが、震え声で「お母さん、お母さん」としがみつくばかりだった。家は、玄関から中は畳が盛り上がり、家具や建具も倒れていて入れない。でも、母はその中から夏布団や私たちの服を引きずり出してきた。

 そこへ、学校へ行っていた六年生の姉が血だらけで、両手を空に浮かすようにしてフラフラと帰ってきた。服はズタズタで、腕は火傷で火ぶくれのようだった。私は、ちゃんと姉を見るのが辛くて、どうなるのだろうと震えていた。母はタオルのようなもので姉の頭を覆い、とにかく救護所のある北の方へ行こうと準備した。そして、どこからか大八車を探してきて姉を寝かせ、母は下の妹節子をおんぶし、私はすぐ下の妹寿代の手を引いて五十メートル西の国道の方へと向かって行った。

 振り返ると、街の方はすでにどす黒い煙と赤い炎に包まれ、その火の手は南に五百メートルぐらいの所まで迫っていた。そして、市内から北へ逃れてくる人の群れが、国道いっぱいに溢れてきた。その人たちの姿は、みな煤けて、灰まみれで、髪の毛は逆立ち、着ているものはボロボロで皮膚に張り付き、異様な姿であった。まさに地獄絵図のようだった。その列の中に入って私たち母子もただひたすら北へ逃げていった。

 傍らに火傷をした人がいて、皮膚は破れて垂れ下がり、身体には帯か布切れなのか、お腹に何か抱えて歩いていた。誰かが、「あれは内臓よ、もうだめだ」と言っていたが、まもなく道端に倒れてしまった。また、バタリバタリと座り込むように倒れて、そのまま立てない人がいても、みんな気にとめる力もなく、ひたすら歩き続けた。兵隊さんもいたし、馬もいた。国道の両側は畑だったが、馬が急に畑に向かって走って行き、バタリと倒れた。道路の両側は倒れた人、死んだ人でいっぱいであったが、何も考える余裕もなく、ただ妹の手を握り締めて母に付いて歩き続けた。

 それから、どれだけ時間が経ったのか、午後になって、市内から十キロぐらいの所(今の安古市)で、母は国道をそれ、小川(今の古川)の橋の下で、「ここで私が帰るまでじっと待っていなさい」と言った。姉の様子がどんどん悪くなるので近くの学校の救護所に連れて行くと言うのだ。橋の下でじっと妹と待っていると、田んぼの向こうの農家からおばさんが出てきて、「街の方では大変な事が起こったねえ」と言って、おむすびをくれた。はじめてお腹のすいていたのに気付いた。橋の下でうずくまっていると、雨が降り出し、空が暗くなって地面には墨を流したような黒い雨水があふれた。

 夕方になって、やっと母が戻ってきた。姉は頭に包帯をしてもらい、大八車の上で、「痛い、痛い」とうめいていた。市内の方はまだ燃えていて、異様な臭いはこの辺りまで漂ってきた。でも、母は「家がどうなったか。お父さんが帰ってくるかもしれないから」と言って、来た道を帰ることになった。午後の四時か五時ごろだったと思う。まだ北に逃げる人が大勢いたが、それと反対に帰って行った。

 帰り着くと、今朝そこにあった家の辺りは何もない焼け野原となっていた。まだ煙の燻る前で呆然とする私たちに、母は家の前を掘って作った防空壕の中から米やかぼちゃなど食料を取り出し、食べる物を作り始めた。と、そこへ父が帰って来た。見たところ火傷や怪我をしている様子がなかったので、みんなで喜び合った。父は、当時、広島湾にある元宇品の山の洞窟で通信業務をしていた。六日は夜勤明けで、朝八時に宇品を出て、帰宅途中に被爆したのである。

 やがて日が暮れ、あたりは焼け跡の残り火が燃え続いており、鼻を突く何ともいえない臭いと、ムッとする暑さが辺りに充満していた。父は、そこらのトタン板や焼け残りの板切れを寄せ集めて家族の寝る場所を作ってくれた。

 父の話では、その時、宇品線電車の広島高等師範学校(現在の広大付属高校)停留所の辺りにいたそうだ。ピカッと閃光がきて電車が急停車し、人の下敷きになり瞬間には何がなんだか分からないままようやく這い出し、焼け爛(ただ)れた人があちこち逃げ惑う恐ろしい状況を目にしたのだ。それから家族のいる家に向かったのだが、一面火の海の街中は通れず、干潮であった川を渡り(市内には六つの川があった)、西の三滝山まで行って、夕方ようやくわが家にたどり着いたのだ。途中の川では火傷や、燃え盛る炎の熱さで川に飛び込む人が多く、水際にはたくさんの人が死んでいたそうだ。

 姉の容態は悪く、母が頭の手当てをしていて、「なにか白いものが見える」というのでよく見ると石のような物が突き刺さっていた。父が大芝国民学校の救護所に連れて行き、軍医さんに看てもらったら、「瓦が深く刺さっていて脳膜炎を起こしているが、どうしようもない」と、瓦を取り出して赤チンを塗ってもらうだけだった。取り出したものをよく見ると、大きさは直径四センチぐらいの三角にとがったもので、屋根瓦が爆風で吹き飛び、姉の頭で割れて中に突き刺さったということだ。姉は校庭にいたので、頭の怪我と、洋服から出ていた手や足に火傷し、ズル剥(む)けになっていた。

 姉が寝かされていた救護所の教室は、筵(むしろ)を敷いた床に大勢の人が寝ていて、「お水、お水」とうめく人、血まみれでもがく人などいて、私は廊下から中の姉の近くへは恐ろしくて行くことができなかった。母の話では、隣に背中一面火傷した人がいて、その火傷にウジ虫がわいて、姉の所まで這ってきて火傷に取り付くので、必死に割り箸で取り除けたということである。

 母は、姉にトマトの汁など飲ませて一生懸命看護したが、意識もないまま八月二十一日、亡くなってしまった。その時は、毎日たくさんの死者があるので、市の焼き場も機能せず、学校の校庭の隅で荼毘(だび)に付した。父は男泣きに泣いていた。母はどうしても火を点けるのを見ていられないと、その場から私たちを連れて泣き泣き帰っていった。この状況の中ではどうすることもできない悲しさに、家族みんな寄り添って泣くばかりであった。父は夕方遅くになって帰ってきた。姉が夕方までかかってようやく骨になり、それを比治山のお墓に納めてきたと言っていた。悲痛な思いがこみ上げ、みんな黙り込んだ。

 毎日、毎日、町内会の人が死んだ人の遺体を収容し、積み上げてトタン板で覆って焼いていた。何ともいえない嫌な臭いがそこら中に充満し、夜になるとその残り火に青いリンが漂って、とても恐ろしかったのを覚えている。今でも暑い夏の日、道路にジリジリとした熱気でかげろうがたつ時には、フッと、あの臭いが蘇り気分が悪くなる。

 原爆を受けてから二十日位経った頃、父はお腹の具合が悪くなり、下痢をして熱もあるようだった。朝、髪をとかすとき、「あれ、こんなに毛が抜ける」と手鏡を見るのだ。私は言いようもない不安でいっぱいになった。焼け跡に戻った近所の人たちの噂で、「ピカ爆弾に遭(あ)ったら、昨日まで元気な人が朝死んでいる」とか「髪の毛が抜け出したらおしまい」とか言われていたからだ。母も私も息を詰める思いで毎日不安であったが、防空壕の中に取り込んでいた野菜の人参や玉ねぎを生で食べたりして、何とか回復することができた。

 食料は街の中には全くなかった。家の前にあった畑にかぼちゃがたくさん実っていた。その持ち主の一家は全員亡くなられたという話で、そのかぼちゃを頂いた。それは、ご馳走の部類で、サツマイモの茎が結構食べられた。母が姉の看病で救護所に行っていたとき、近所のおばさんのすることを真似て、七輪にそこらの木切れをくべ、生まれて初めて自分でマッチに火を点けた。ドキドキしながら焼け跡から掘り出したフライパンを乗せ、その中にサツマイモの茎を五センチぐらいに折って入れ、油で炒めた。飯盒(はんごう)でご飯も炊いた。妹たちがいたので、母の代わりにと自分ながら一生懸命であった。時々母が戻ってきて、「喜久子ちゃんよくできたねえ」と誉めてくれるので、得意になって、「私が留守を守ろう」と思ったものである。また、そこらに生えている雑草の中で「あかざ」という赤みを帯びた草をゆがいておひたしにした。サツマイモの芋も掘ってみたが、まだ大きくなっていなくて、小指くらいの筋ばかりで食べられなかった。

       戦争に敗れて

 八月十五日、どこからかラジオの放送が流れてきて、近所の人が重苦しい雰囲気で集まっていた。ラジオで何を言っているのか、雑音が多くてよく聞こえなかったが、「天皇陛下の言葉」だったらしい。それを聞いた近所のおばさんたちがヘナヘナと座り込み、みんな声をあげて泣いている。何のことか分からないまま、私も母にすがって一緒に泣いた。大きなおじさんも、男泣きしている。母に聞くと「戦争に負けたのよ」とつぶやいた。

 そこへ先隣りの「こうの」のおばさんがどこからかヨロヨロと帰ってきて、母たちに取りすがり、ワッと泣き出した。母たちはそれぞれ何か慰めていたようだが、悲痛な雰囲気が立ち込め、とてもかわいそうな思いでいっぱいになった。そのおばさんの家の女学校に行っていたお姉さんが、どこかの防火水槽の中で死んでいるのが見つかったということだった。どの家も誰かを亡くし、家も焼けて戦争にも負けて、一体どうなるのか、子ども心に不安で悲しかったのを覚えている。

 九月を過ぎて、また学校へ行くことになったが、校舎は屋根もなく、一階がつぶれて二階が一階状態で、校庭の木陰で授業が行われた。雨が降ったら休みとなる。教材もなく、わら半紙と鉛筆の配給があったものの、全く勉強にはならなかった。先生も決まった先生が揃わず、楽しかったのは男の「さんのう先生」という方が、時々怖い昔話をしてくださることだった。家族を亡くして校舎の瓦礫の後片付けに追われる日々の中で、木陰で聞くそのお化け話が楽しみで心待ちしていたが、その先生もやがて来られなくなった。

         台風上陸

 その年の秋に、大型台風が広島に上陸した。夜になっても激しい大雨が降り続いた。掘っ立て小屋の中にみんなで固まっていると、柱に掛けてあった姉の写真がバタッと落ちた。それをきっかけのように物凄い風が吹き荒れだした。バリバリとトタン屋根が吹き飛ばされ、柱も倒れた。慌てて、外の焼け跡にあるコンクリートの壁を見つけ、その陰に身を寄せた。と、突然、雨も、風もフッと止まり、夜空に月がくっきりと輝き、雲は一つもない。辺りは水を打ったようにシーンと静まり返った。何の音もな不思議な時間だった。後の話では、それは台風の目に入ったことのようだった。

 しばらくして、「土手が切れたよー」と、大声で叫ぶ声が夜のしじまを破って聞こえてきた。北へ百メートル位の所にある「新庄の大楠の木」の下辺りに住んでいる、ちょっと精神に障害のあるおばさんの声である。よく大声を出して近所で有名な人であったが、あのおばさんも生きていたのだなと思ったのも束の間、足元に水がヒタヒタと押し寄せて来た。その日、父は鳥取へ出張中で、母と姉妹だけであった。

 私は、妹を負ぶっていて足のもつれる母の手を引っ張り、「早く、早く」とせきたてて、横川の方へ走って逃げた。水はもう膝の辺りまでになって、後ろからザワザワと追ってくる。水はどんどん押し寄せて、腿の辺りまで浸かって走りにくい。焼け残った家に掛け込み、「助けてください」と言ったが、「もういっぱいでこれ以上はだめ」と断られた。もう二、三軒先の敷地が高くなっている見知らぬ家に駆け込むと、「どうぞ」といって二階まで上がらせてもらえた。そこも近所の人でいっぱいになっていたが、みんなただ黙って、窓から下を流れる洪水を見ているばかりであった。

 市内はこの水害ですべてきれいに流されてしまった。私の住んでいた焼け跡の掘っ立て小屋跡から南を見ると、二十キロくらい先の似島が、海面からくっきりと立つ姿が見えた。町の中の建物は全て焼け落ちて何もなかったからである。その瓦礫の焦土に洪水が溢れ、私たちの家もトタン板で作った簡単な家だったので、床ごと流されてしまった。わずかに取り出した洋服や食べ物も流れて行き、本当の丸裸になってしまった。原爆や水害で全てを失い、戦争にも敗れてしまったが、何よりも人間の心が瞬く間に失われたのを目の当たりにして、とても悲しく思った。それから、被爆を免れた親戚を頼って移り住んだが、落ち着いた暮らしになるには何年もかかった。

         復興の兆し

 私が小学六年生のとき、本川国民学校へ転校した。本川国民学校は当時としては数少ないコンクリートの校舎で、被災後はひん曲がった鉄骨やコンクリートの瓦礫を片付けるのが日課であった。埃まみれになって作業をして、ちょっとだけ授業があった。教室の中はフロアの床板が焼失して、裸のコンクリートが剥(む)き出しで、湯たんぽのようにでこぼこで歩きにくかった。担任の先生は一年間で七人も代わり、名前を覚える間もなかった。生徒の中には、学童疎開をしたものの、市内に残った家族が全員死んで、一人ぼっちになって親戚と暮らす子が何人かいた。みんな何か辛いことを心に持っていても、休憩時間が楽しくて、校庭でいろんな遊びをした。

 夏には今の原爆ドームの手前にある川で、毎日のように水泳をした。男の子は相生橋から飛び込みをしていたが、私は泳げなかったので、水際にばかりいた。後ろの石垣には、石の間に原爆で死んだ人の骸骨があちこち取り残されていて、今考えると、よくそんな川で泳いだと背筋が寒くなる。

 やがて、人々の心にも落ち着きが生まれ、復興の槌音と共に、この原爆という惨禍を再び繰り返すことがないよう、平和への働きかけが始められた。昭和二十二年八月六日、浜井信三広島市長による「平和宣言」が広島から世界に向けて発信された。

 その年の十二月、天皇陛下の広島ご訪問があった。広島城の辺りに市民が大勢集まり、私もその会場へ出かけた。人ごみでよくは見えなかったが、人垣の間から覗くと、地味なコートを着た意外に普通の人のようで、長靴を履いていて、その靴に泥がついていたのが印象的であった。人々は興奮気味であったが、子ども心にはあんなに遠い存在だった方が、普通の人のような姿で来られたという意味はよく分からなかった。

 中学校に進学するとき、教育制度が変わって六・三・三制となり、中学が男女共学の義務教育となった。父は、広島市の中で一番早くに校舎を復興させた、キリスト教の広島女学院へ私を受験させた。公立の学校が男女共学となったため、父の考えでは男女が一緒に机を並べることに抵抗があったらしい。勉強らしい勉強ができる状況ではなかったが、広島女学院に入学できて新しい生活となる。昭和二十三年の春のことである。

 戦争中は、「鬼畜米英」という敵対思想のもと英語を話すのが禁じられていたが、新しい民主主義のもと教育も大きく変わった。アメリカの教会から派遣され、日本語のできない先生もおられ、英語での授業は戸惑うことが多かった。物資不足の広島で、教会から届けられた文房具や花柄コットンの布が生徒に配られ、母にブラウスを縫ってもらってとてもうれしかった。また、先生の中には、家族をこの戦争で失った方もおられ、それを乗り越えての奉仕活動に、頭の下がる思いがした。

         世界平和への願い

 昭和二十七年被爆七周年となり、平和記念公園に新しい慰霊碑ができた。「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と彫られた碑の中に原爆犠牲者の名が書き込まれた過去帳が収められた。この碑文について後に論争が起こったが、それから世界平和へのさまざまな活動がなされていった。被爆者として、政治色の強い活動になじめない市民も多く、また、被爆当時の深い悲しみからそれを語ることができない人も多かった。

 今、世界には多くの核が存在し、核保有大国では臨界前核実験も行われており、人類の犯した愚かな行為は正されていない。そして、核を持っている国も、持たない国も宗教や経済問題で紛争が絶えない。戦後六十年を迎える現在も、世界では未だ憎しみと報復の連鎖を生む状況がみられる。

 ヒロシマに生きる者として、あの戦争はどのように始まり、一般市民がどんなに苦しみ、そしてどう終わったのか考え、その実情を伝えていくことが今こそ大切な時だと思う。そして、原爆の中で生き残った者として、このような悲惨なことが二度と繰り返されることなく、平和な世界がいつまでも続くよう心から願わずにはいられない。

・・・六十九歳