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《平和を祈る人たちへ》
神の御手が働いて

バンディー 悦子(旧姓 西本)
高校八回・大英八回、米国ジョージア州在住

 ここ数週間、スマトラ沖の地震、津波の犠牲者とアフリカの紛争に世界の目は注がれています。海底六マイルで起きた地震による破滅的な災害と、それによる想像を絶する二十一万人もの命が失われたことをテレビ、ラジオや新聞は報じています。地面には犠牲者の遺体が累々と並べられ、人々は失った家族を必死に捜しています。このニュースで、私は七歳の時、昭和二十年八月六日のことを鮮明に思い出しました。私の故郷である広島に、人類初の原子爆弾が投下されたあの歴史的な日を皆が覚えています。多くの人が殺され、焼かれ、傷付きました。多くの家屋が破壊され、親は子を失い、子は親を失いました。

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 私の両親は、横川で荒物店を営んでいました。両親、一歳半年上の宜功(よしこ)姉ちゃんと私は、その店の二階に住んでいました。私の二番目の姉、淑子(としこ)は打越の本宅に住んでいました。その本宅は、店と原爆投下の前日に完成したばかりのシェルターハウス(避難用の家)のちょうど中間辺りにありました。そのシェルターハウスは丘の麓の竹林の中にあり、目の前に太田川が流れていました。そこは爆心地から二キロメートル(一・二マイル)の所でした。一番上の姉、麗子は東京女子医大で学んでいました。三番目の姉、幸子(さちこ)は同級生と共に田舎に疎開していました。

 原爆投下の前夜、母はシェルターハウスに行こうとしきりに勧めるので、私は母と手をつないで、母は面白い歌を歌いながらシェルターハウスへ行きました。母は私にお金の入った箱を持たせてくれたので、私はとてもうれしかったのです。父は店に残りました。次の日は早朝に起床しました。私たちは大工さんが残していった鉋屑(かんなくず)などを片付けて掃除をし、この屑を焚くために火をおこしました。宜功姉ちゃんと私は、この新しい家のお風呂をどっちが先に使うのかと競っていました。その朝は学校へは行きたくなかったのでサボって家にいました。三篠国民学校の建物は兵隊が使用していて、私たちは近所の家で勉強をしていました。私はその時、飛行機の爆音も、警戒警報のサイレンも、大きな爆発音も聞いていませんし、また閃光(せんこう)も、きのこ雲も、見た記憶がありません。覚えているのは、私がいた所から麦畑に吹き飛ばされて、黄色っぽい臭いのするベールに包まれているような感じだけでした。

 私は「お母さんどこ?」「お姉ちゃんどこ?」と叫び、お互いを見つけることができました。私は首が熱くて熱くて、大砲の弾を打ち込まれたように感じました。痛みを和らげようと川の中に入りました。傷を負っていることに気付き、母は緊急治療センターに当てられていた三篠国民学校へ私たちを連れて行くことにしました。学校への狭い道を歩き始めると、道沿いの家々は倒壊していて、「助けて!」と叫ぶ声が聞こえましたが、助ける気持ちにはなれませんでした。というのは、私たち自身がショック状態だったのです。

 淑子姉さんの住んでいた本宅の所へ来ると、家は倒壊していました。「淑子姉さん、かわいそうに。死んだに違いない!」と思わず叫びました。はじめは、敵は私たちが鉋屑を焚いた火の上に直接に爆弾を落としたと思ったのです。しかし、歩いて行くにつれて破壊の範囲の広さに驚嘆しました。こんな破滅状態を起こす爆弾とはどんなものか? やがて周りの家が燃え始めました。危険を感じて母はシェルターハウスに引き返すことにしました。歩いていると、多くの人が行く当てもなくゾンビのように歩いていました。何が起きたのか、どうしていいのか、どこへ行けばいいのか分かりませんでした。大勢の中には髪の毛のない人、裸同然の人もいました。体は引き裂かれ、血にまみれ、焼かれ、腫れ上がっていました。皮膚が垂れ下がっている人もいました。川のほとりの道路には死体がズラリと並んでおり、両手を高く上げ、眼は大きく見開いていました。大きな目や高く上げられた腕は私には不思議に見えました。人々は「水、水を下さい!」と水を求めていました。

 シェルターハウスに戻ってみると、父と淑子姉さんがいました。淑子姉さんのきれいな顔は血まみれでした。彼女は飛行機の爆音を聞いたので家の外に出て、母屋と倉庫の間で団扇(うちわ)を手にして飛行機を見ていました。家は倒壊しましたが、外に出ていたおかげで姉は助かりました。父は、頭、顔、首、腕に火傷を負いました。父はその朝、市民防衛のための学生を訓練するために、原爆が投下された近くの町へ行く予定になっていました。しかし、バイクがパンクして、それを修理するため出掛けられず、そのために父は助かりました。家族の誰一人、死ぬことがなかったのは神様のご慈悲です。

 シェルターハウスは爆風で半壊し、梁(はり)から長い釘がぶら下がっていました。私たちの家の隣の家が燃え始めました。皆で川の水をくみ上げ、バケツリレーで消火しました。間もなく黒い雨が降り出したので、「敵はきっとガソリンをまいているんだ。そして火を点けて皆殺しにしようとしているんだ」と思いました。その朝の太陽は異常に大きく、まぶしく深紅色で、強く印象に残りました。人々は「こんな男の子を見ませんでしたか?」「こんな女の子を見ませんでしたか?」と尋ねて回っていました。

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 しばらくして、私は足が動かず歩けないことに気付きました。そんな時、田舎の友人が来て、二、三町先の緑井にある伯母の家に私たちを連れて行ってくださいました。この友人が私をずっと背負って下さいました。そこへ行く途中に、栄養がつくようにと誰かがむすびを下さいました。私は、両腕、首、大腿、足に火膨れができていました。その田舎で、医者が被災者を診察し、応急処置をしていました。医者に、私の火膨れを切って水を出してもらい、薬を塗って火傷に包帯をしてもらったかどうかも覚えていません。伯母の家には十日ほど滞在して、シェルターハウスに帰って来ました。

 私は毎日火傷をお湯で拭いてきれいにしましたが、それでもまだ足にウジ虫がわく日がありました。火傷が治るのに十二週間かかりました。しかし、誰にも火傷を触らせませんでした。神様のお慈悲で、あの激しい痛みも苦しい体験も拭い去られ、火傷の痕をきれいにしてくださいました。火傷の処置をする度に痛いのでひどく苦しんで泣いたと、母と姉たちが後になって私に語ってくれました。医療の助けもなく、感染症にもかからず、三カ月で火傷が癒えたのは神様のおかげと思っています。

 身体的な傷は治りますが、精神的に負った傷の回復はずっと長くかかります。夫のドンが、日焼けした皮膚を剥(は)ぐように私に頼む度に、私は吐き気をもよおしました。火傷の処置をした時の痛みの隠れた記憶が、かき起されたに違いありません。また、消防車や救急車のサイレンを聞くと、飛び上がってしまいました。原爆の前にサイレンの音を聞いた記憶はないのですが、きっとサイレンを聞いていたに違いありません。火鉢で焼いた魚を食べることはできませんでした。というのは、あのシェルターハウスの近くで、何日も何日も死体が焼却されていたからです。その時の悪臭を長い間忘れることができませんでした。

 被爆体験を私は心の奥底に秘めておくことにしました。忘れたかったのです。誰にもそのことを話したくありませんでした。被爆から生き残った人は「駄目だ」とか「敬遠される」者としてらく印を押されたようでした。「私と結婚したいと思う人がいるだろうか? 生きていくよりも死ぬ方がもっと楽ではないのか?」と私は思いました。ある日、幸子姉さんが私に「悦ちゃん、いつかは原爆にあったことを良かったと思える日が来るわよ」と言いました。「決してない! どうしてそんなことが? 良かった? とんでもない!」

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 今年は広島の被爆六十周年です。生きておられる被爆者の数が年々減少しています。同じ過ちを二度と繰り返さないために、苦渋の体験を素直に語るのが良いと思います。過去の悲しい体験を抱いたまま、人や国を責めようとするのは、間違っていると思います。この苦しい経験を誰のせいにも、どこの国のせいにもしたくありません。人はそれぞれ異なった苦しみ、例えば、病気、愛する者との別れ、離婚、経済的喪失、人間関係の崩壊など、いろいろなことで苦しみます。人それぞれにとって苦しみは、私が体験したのと同様に、現実のものであり痛みを伴うものです。神様や他人のせいでしょうか。それはとんでもないことです。

 私はまだまだ多くの苦しみを経験しました。腎不全で左の腎臓を切除しました。一人娘を乳癌で亡くし、息子は離婚しました。人災であろうと自然災害であろうと苦難は痛みを伴います。しかし神様を愛する人には、神の御手が働いて私たちのために苦しい体験を素晴らしい経験に変えてくださいます。聖書のローマ人への書の八章二十八節(NLT)には、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」と述べられています。

 神様は、私の生涯においてこの約束が満たされるのが分かるように、私を長く生かして下さいました。語れば長くなりますが、私は生涯を通して、神様の慈悲を感じ、感謝しています。しかし、私の一番の心配は被爆者が結婚し、家庭を持つことができるのかということでした。しかし、神様は祝福をして下さいました。

 昭和三十三年の夏、私が広島女学院大学の二年生の時、神戸で開催された大学生のための二週間の国際セミナーに参加しました。このセミナーはAFSC(American Friends Service Committee)主催で、セミナーの主題は「戦争を望まぬなら、平和のために備えよ」というものでした。原爆被爆者として、マクミラン先生と母に参加を勧められました。マクミラン先生は私の親愛なる先生であり、助言者でもあったので、「あなたなら戦争による苦しみや痛みが他の人に分かってもらえるように話せると思う」とおっしゃってくださいました。それでセミナーに参加を申し込みましたが、心の中では重く感じていました。というのは、二週間のセミナーの間、英語で会話する自信がありませんでした。そのセミナーでドンに会い、私たちは「一目」で恋に落ちました。私は卒業まで学業を続け、彼はアメリカに帰って行きました。昭和三十五年に広島女学院を卒業し、七月に私はアメリカに行き、ドンが当時住んでいたカリフォルニアのパサデナで結婚しました。

 結婚して四十四年になります。今では三人の子どもと、九人の孫に恵まれています。神様がお与えくださった私の家族と共に、人生をエンジョイしています。また、アメリカと日本の温かい愛する友人たちに心から感謝しています。そして、自由になれる自分、この美しい国、教会で聖書を学んで、もっと個人的にイエス様を知る機会を与えられたこと、信仰深いクリスチャンとの交わり、毎日を強く生きること、そしてイエス様と共に永遠の命を与えられるとの確信に感謝しています。イエス様は私たちよりもはるかに偉大です。万物の創造主であり、宇宙を支配され、愛であります。私たち一人ひとりに何がベストであるかご存知です。愛する人たちを鍛錬され、一人ひとりとかかわりを持ってくださいます。私たちの罪をあがなうためにイエス様が十字架に架けられて亡くなられたということ、そのことを信じる時、私たちは神の子として御許に近づくことができます。そして、この世と天国においてイエス様と共にいることができます。

 平和と平安の到来は、神様を通してのみ得られると私は信じています。人間が邪悪な願望を心にもっている限り、戦いは吹き荒れるでしょう。私たちは他人が持っている権力、財貨、名誉などをむやみに欲しがります。それが得られないとなると争うのです。イエス様を信じて従うなら満足を得ることができます。イエス様の王国がこの世に建てられたその時、唯一その時のみに永遠の平和が得られることでしょう。イエス様の再来を待ちましょう。広島女学院を通してキリスト・イエスに私を引き合わせてくださり、私の人生を導いてくださったことに感謝いたします。

            ・・・六十七歳.

(原稿は英文で提出されましたが、大英六回の池田チヅ子さんに訳していただきました)