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じいちゃん その足どんげんしたと    ―― ある被爆者の戦後史 ――


4 被爆者として生きる

 被爆者ゆえの人生

 私は今までなるべく被爆したことは隠そうとしてきたが、青年乙女の会への出入りは前にも増して多くなり、同じ被爆者との話の中で個々の原爆被害は私が思っていた以上に想像をはるかにこえた。真に地獄だったのか、それは被爆当時も、それから長い人生も、私一人だけではなかったのだ。それにもっと驚いたのは被爆者がもっとも話したくないだろう地獄の出来事を、話し出したら涙を流して話す者もいた。なぜだろう。私も浜谷先生や学生さんに話をした。自分は過去にこんなにひどい目にあったんだよと言いたいのか、それもあるだろう。だが他にまだ何かがある。

 私は被災協に行くようになった頃から、いつかは自分の生き様を書いてみたいと思うようになっていった。仲間が一人また一人と死んでいく中でその思いはますます強くなっていく。一つに、私の人生をとてもじゃないが子供に言えない。もう一つは、あと三十年生き続けることはむずかしい。やはり後世に原爆は野蛮で非人間的で悪魔の落とし子であることを書き残すことも、大切なことのように思えてならない。それも早くやらなくては時間がない。

 一九九一年(平成三年)の夏、健康だけが取り柄の私が倒れてしまった。早朝野球を見ていて倒れ、救急車で聖フランシスコ病院へ送られた。狭心症の疑いがあると医者に言われ、いよいよくるものがきたなあーと思った。心臓の病はショックだった。仕事一筋の私だったが、自分の人生は終わったような気がしてならなかった。

 入院生活がはじまり、無一文の私だったが、なるようになるさと思うと気が楽になった。これからどんな生き方をしていったらよいのか、いろんなことを考えているうちに、四日目に退院することができたが、うれしさより一抹の寂しさが残った。それは遠い過去の出来事、つまり「死」を間近に感じたからだろうか。いつ死ぬか分からない人生なら、人のためになるようなことが出来ないか、そんなことを考えている自分に驚いた。

 一九九二年(平成四年)に日本被団協原爆被爆者中央相談所の九州ブロック講習会が沖縄であり、仕事まで休んでと思ったが、狭心症になってから今の内に行けるところは行こうと思うようになっていた。学生時代に修学旅行に行ったくらいで、一度も旅など行ったことがなく、思い切って参加させてもらった。

 飛行機に乗ったのも初めてで、飛び上がる時はそんなに恐いとは思わなかった。機内で小用をしたくなったので会員の岩永保さんに「トイレはどこ」と聞いて行ったがドアの開け方が分からず、戻ってくると「えらい早いね」と言う。私は「ドアを開ければ機外に吹き飛ばされるごたっけん、せんやった」と言ったら、聞こえる人は笑った。余計なお世話かも知れないが、着陸態勢になると車輪は出とっとやろかと思い、着陸するとブレーキは効くとやろかと思って、飛行機が止まって一安心する始末だった。

 沖縄は美しい海に囲まれ、青々とした山々、十二月も間近というのに目が覚めるような色の濃い花も見ることができた。美しい。それに素朴な人々。この美しい海が、山が、そして町の多くの人々が、四十七年前にこの地にどんな悲劇を生んだのか想像するだけでも怖い。地上戦の痕跡はいたる所に残る。弾痕の跡、どす黒くなった血痕、火炎放射で変色した岩肌、沖縄戦のすごさを肌で感じた。

 十二月も終わろうとする二十八日、一本の電話があった。

 「小峰さんでしょうか」

 「はいそうですが、どなたでしょうか」

 「小学校の頃一緒だった松永(仮名)です。失礼ですけれどお元気でしょうね」

 その時私はとっさのことで誰だか分からなかった。もしかしてABCCに一緒に行っていた松永さんではと思った。その時電話は切れていた。そして三十一日にまた電話があった。

 「今日は。この前はどうも」

 「もしかして、ABCCに一緒に行っていた松永さん?」

 「そうよ、分からなかったの。会いたいなあー、私、明日東京へ帰るのよ」

 「じゃー十時頃になりますよ。なるべく早目に行きます。浜口の『ひいらぎ』という喫茶店へ行っていてください」

 私はその人がどうして会うことに執着するのか図りかねた。

 その人は喫茶店で待っていた。

 「やあー、久しぶりですね。小峰です。何年位になりますか」

 その人は都会の人らしく垢抜けた美しい人だったが、子供の頃の面影はあまり感じなかった。

 「本当に松永さん、なんだか別人のようだ」

 「本人よ、小峰さん、面影あるよ。一年生のあの冬、私いつもあなた見てたの。可哀想って思ってたけれど何も言えなかった。ずーと気になっていたの。父の仕事の関係で静岡に行っていて、大変失礼だけど、もしかしたら亡くなったんじゃないかとも思ったことあったのよ。それでね、あなたの声を聞いたら、会いたくなったの」

 私は自分の人生の経緯を簡単に説明した。これも驚きだった。今まで自分の人生のこと、それこそ誰にも話したことなかったことだった。その人は私のために泣いてくれた。それも初めてのことでとまどった。

 「私ね、主人と子供二人いるのよ。長崎のおばあちゃんが亡くなって長崎へ来たのよ」

 「幸せみたいだけど、ご主人、あなたのこと、被爆者だと知っていらっしゃるんでしょう」

 しばらくして「言ってないの……どうしても言えないのよ」

 私は何も言えなかった。この女も心の中に辛い十字架を背負って生きていくのか。辛い。いらぬこと聞いたばかりに心が張り裂けるように辛い。「被爆者」を心の奥の奥にしまわせてしまったのも、やはり原爆なのだ。私の人生も、ある者は言うだろう。「小峰、お前の生き方は間違っている。お前がもっと利口な人間ならば、妻も子供も今のようにならなかったはずだ」と。そう、私自身そう思って自分が嫌になり、「もっとしっかりせろ」と己を叱咤する。だが原爆に遭っていなかったらもっと違った生き方ができたのではと思うこともある。そんなことを考えていたら、

 「小峰さん、今日ありがとう。会えてよかった。私ね、東京の住所ね」

 私はあわてて手で遮った。

 「私は東京へ行くこともないし、今のあなたの名前も聞くこともない。もし長崎へ来ることがあったら、また会いたいです」

 そして別れた。被爆者だけに分かり合う気持ちだったのかも知れない。私はこの出会いを一生忘れることはないだろう。また、忘れてはいけないと思っている。

 でも、何か物足りない。何かが気になる。会ったときは感情に溺れていたようだが、よく考えると被爆者は、原爆投下時から原爆医療法ができた昭和三十二年までの十二年間は、国から完全に見捨てられ、見殺しにされてきたではないか。その間病気に、貧困に喘ぎ、病院に行く金もなく、働こうにも病気がちで働けず、多くの被爆者は投下時からずーっと地獄の苦しみをいやというほど味わってきた。そして大勢の人々が病気で亡くなり、あるいは自ら命を絶ったのだ。一瞬にして原爆で両親も兄弟、姉妹も死に絶えて、たった独りぼっちになった被爆者の悲惨さは、私が想像するのもあまりある。

 そんな境遇の中で育った奥村アヤ子さん(五十八歳)に聞いてみたことがあった。

 「小峰さん、あんたたちは火傷を負って痛かったり死ぬ思いだったかもしれないけれど、看病してくれる者がいて、心配してくれる人がいて、食べ物だって平等に食べれたはずだ。それにひきかえ、八歳で独りぼっちになった私など、あまりのショックに記憶喪失になってしまったんだから。親戚に預けられて、毎日毎日泣いて暮らしたとよ」

 五十年たった今でも心の傷は癒されることはないと、その人は話してくれた。

 被爆者はむしろ、その人生を語り自己主張すべきではないのかと言いたかった。