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じいちゃん その足どんげんしたと    ―― ある被爆者の戦後史 ――


 一橋大学での語り部

 長女は平成一年に結婚してその孫も三歳になった。「莉沙」という。「じいちゃん」と言って飛びついてくると、柄にもなく目を細めて抱き上げる「おじいちゃん」になってしまった。

 莉沙が生まれる日、私は病院へ行ってみると別れた妻がそこにいた。私はびっくりしたが腹立たしさはなく、むしろありがたいような気がした。子供に手が掛かっていた頃は他人は勝手なもので、特にタクシーの運転手など「小峰、この前の夜、あんたの別れた嫁さん、男と歩いていたとば見たばい」と言う。俺はこんなに苦労しているのに、いい気なもんだと思うと腹立たしい思いもした。父親なんて女の子には何もできないことは、嫌という程体験している。

 「能里子、俺は仕事に行くけん、後は頼むぞ」と言って病院を出た。これでいいのだ、これでいいと自分を納得させた。今でも莉沙は「能里子おばあちゃん」と言うことがあるが、私は娘たちに一度だって能里子に会うななど言わない。血の通った母と子、私は妻への面当てに子供を育てたのではないから。

 前にも書いたように一橋の浜谷先生(この頃は教授)が家へこられた。

 東京での友だちの中に井上由紀さんがいらっしゃる。浜谷先生の助手をしておられる。もちろんご主人もあるが、私はまだ会ったことはない。井上さんは私にとって存在感のある人で、先生が長崎に出てこられるときは必ず、「井上さんも来るんでしょう」と聞く。来れないときは少しがっかりする。井上さんには、後で後悔するような言い方をすることがあるが、彼女は嫌な顔をしたことがないような女性だ。それだから先生と井上さんには友だちのように何でも言った。

 息子が「東京ってどんげんところやろか」と言ったのが、ことの発端となってしまった。

 「小峰さん、英君と一緒に東京へ行って、学生たちに語り部をしてもらえませんか。ホテル代、飛行機代、私が出しますから」

 当時ちょっとしたきっかけで、修学旅行に来る高・中・小学生さんにピンチヒッターみたいに語り部をしたことがあったが、二回して二回とも失敗だった。思い出して話を進めていくうち感情が高まって、ついに自分が泣いてしまった苦い経験がある。二度と語り部はしないと思っていた時だけに、東京へは行く気はなかった。また、この先生は何て恐ろしいことを言い出すんだろう。一橋大学といえばエリート中のエリートなのに、できるはずないと思った。側にいる井上さんまでが「先生、それ、いけますよ」と言う。

 「ちょっと待ってよ、先生も井上さんも、そんげん恐ろしかこと言わないでよ。なんで大学でそんげんこと、できるはずなかろうもん。そんげんことより飲みに行こう」となった。

 その後十月に先生が来られた。久しぶりの再会で気持ちよく飲んだ。先生が「小峰さん、東京へおいでよ。一時間半ぐらいの授業だからできるよ」。私はまた東京行きの話かと思った。「先生は無茶ばかり言って」と言ったものの、アルコールが入ってたのも手伝って、なんだか自分にもできるように思えてきた。それにたたみかけるように、「東京で大学の講演が済んだら栃木県の里美ちゃん所へ行って、可愛い孫の顔見に行けばいいよ」。先生のこの一言が私をその気にさせてしまった。「よーし、先生、やってみようじゃないの」。大学行きを決心したが、その後どんな悲劇と苦労が待っているか知るよしもなかった。

 二女の里美はいわゆる「でべそ」(でたがり)で、式も挙げることなく好きな人と一緒になって栃木県に住んでいる。一月頃出産の予定だ。

 いつ先生から上京してと電話が掛かってくるか焦る毎日が続く。まずどうすれば感情に溺れることなく最後まで話ができるか。それには自分史を作成して原稿にしてしまうことだと考えた。話の内容ごとに区切っていく方法をとった。一時間半の話を書くこと自体、文章など書いたことのない私にとって至難の業だ。先生の顔が憎く思えてくる。お陰で頭の毛が薄くなったような気がする。またこんなに夢中になって字を書いたのも初めての経験だった。過去のことを書く時はとかく美化されやすいので注意して書かねばと思う。

 この秋、青年乙女の会から二名、被団協の人たちと中央行動に参加させてもらった。議員会館や大蔵省に陳情や援護法の制定のお願いなどで疲れて帰って来た。今回の旅行で多くのことを知ることができた。中でも被爆者に対して国が行った

 一、被爆者の諸手当

 一、被爆者医療費免除

 一、原爆病院

 一、原爆養護ホーム

 一、被爆者保養施設

 などの施策は、被爆者が指をくわえて見ていて国が作ってくれたのではないということが初めて分かった。我々の先輩の被爆者、それも一部の人たちが手弁当で、中には下駄ばきで上京し、お金のない人はラーメンを食べ、冬の寒い日も暑い夏の日にも地味で辛抱強く各省前で、いろんな施設で、座り込んだり陳情したり運動を続けて来たのだ。被爆者運動に何らも参加せずに、病院へ行ってもお金がいらないので助かる、という者もいる。それも結構だが、一人一人の被爆者がこの現実を知っておくべきだと強く思う。

 そんな被爆者の実態に賛同し一人また一人と今ではものすごく大きなネットワークにまでなった。私は今回この多くのネットワークを見て、青年団が、婦人会が、生協が、あらゆる階層が加わったこのネットワークの人々の多さは何なんだろうと思った。ただ単に被爆者に対する同情だろうか。それも少しはあるかもしれない。だが違うと思う。現在、核保有国で国民を裏切る指導者が、麻薬常習者が、誤ってボタンを押さないと誰が言えよう。冷戦が終わった今日、旧ソビエトではプルトニュームの持ち出しすら可能と聞く。一発の核が明日かもしれない、五十年、いや百年先かもしれない。核の存在する以上、誰が核使用がないと信じようか。そして誰もが考える。核のない時代が一日も早く訪れることを。多くの人たちはそれを真剣に望んでいるのだ。

 自国が核で汚れるのは嫌だが、他国を汚染するのは一向に構わないと考える、どこかの馬鹿な大統領もいる。そんなことを考えると私も頑張らねばいかんなと思った。

 十二月に入って浜谷先生から電話をいただいた。明けて一九九三年(平成五年)一月十六日、上京した。飛行機の中で三人の人たちと一緒になった。一時間程話されていたが、話の種が尽きたのか、私にいろいろ話しかけられる。今まで二度飛行機に乗ったがこんなことはなかった。「どちらへ行かれるんですか」と聞かれる。私は何と答えようかと思ったが、一生に一度ぐらい優越感を味わってもいいように思って「一橋大学へ講演に行くところです」と答えたら、頭の先から足元まで何回も見て、それ以後何も話してくれなかった。私は助かった。そのまま話していたら化けの皮がはげていただろう。

 羽田で久しぶりに栗原さん、持田さん(二人とも一橋大OG)が迎えに来てくださっていた。あまりの懐かしさに何から話してよいのか、とまどう。友だちって本当に良いものだ。持田さんとは十何年ぶりか、一児の母になられて、それでもあまり変わってないみたいに見える。

 一月十七日、井上さんに連れられて、国立市にある本校にも行った。会場の小平分校(分校は一、二年生)の階段教室は底冷えがひどい。五分位前になると、この場から逃げたい衝動にかられる。やたらお茶を飲みたばこをふかす。落ち着かねばと思うのだが、教室に先生、私、井上さんと入って行く。映画館のように段になっていて、奥に居る人の顔もよく見える。先生から紹介がある間、私は足ががたがた震えた。頭の中で「大学生と言っても自分の子供とあまり変わりないよ。子供に語りかけるようなものだ、落ち着け」。

 いよいよ話し始めた。うわずった声で自分が何を言っているのか、頭の中はもう真っ白だ。井上さんをちらっと見た。済ました顔をしている。先生の方を見ると自慢のビデオを撮っている。ファインダーに私の顔、どんなに写っているんだろうか。五分位で落ち着いた。話し終わるまで私は、一人でも席を立たないでくれ、そればかり考えていた。大学では自分にあまり興味ない時は教室を出ていいと聞いたことがあったから。

 話は終わった。一斉に拍手が鳴った。私はこの場に座りたかった。疲れた。今度は質問が矢継ぎ早に浴びせられる。これには原稿は無い。私はしどろもどろになってしまった。なにしろ一人の学生が二度も三度も質問する。早く時間がくればいいと思っているとやっと終わった。良いか悪いか、この時は結果はどうでもよかった。人間やる気になるとできるもんだと思った。自分が妙にえらくなったような気がした。そうしたら結果が気になり出した。教授に聞くのは恐いので井上さんに「どうだった」「五分くらい上がっていましたね」。井上さんはよく聞いてくれていたんだなあ、と思った。教授に「先生、やっぱりやるんじゃなかった」。

 その夜、私のためにパーティが催された。十三名の内に石田忠先生*(一橋大学名誉教授)もいらっしゃった。

 *一九六五年(昭和四十年)長崎での被爆者調査以来、三十年にわたり被爆者問題の調査・研究を続けておられる。

 石田先生との出会いも、被災協に行くようになってからだった。「あの人誰」と聞くと、「石田先生といって一橋の名誉教授よ」と教えてくれた。そんな偉い人と被災協と、どんな関係があるのかと不思議に思った。

 ある時、長崎においでになった。皆んなで飲みに行ったとき、私は初めて先生と話をした。「妻が無く、三人の子供を育てている」など話したら、「君は偉いね」と言われ、ご自分も奥様を亡くされたことを話された。私はこちんこちんに緊張していたが、「こんな名誉教授もいらっしゃるのか」とその時思った。もちろん良い意味である。長崎へ来られたときは、「やあ小峰君、こっちへきなさい」とおっしゃる。東京へ行くと、わざわざ会いに来てくださる。

 そのことを母や兄弟に話すと、「へえー、お前のごたる人間にや」とびっくりしたように言う。私はいつまでも先生には元気でいてもらいたいといつも思っている。

 その日もいらっしゃって、「やあー小峰君、久しぶりだね。よく来てくれたね。大変だったろう、ご苦労様」と言って私を抱いて背中をぽんぽんとたたいてくださった。

 飲み物は私がみたことのない物で、浜谷先生に酒か焼酎か無いかと聞いたら無いとのこと。立っているボーイさんに聞いたら料理用の酒だとあるという。それを飲んでいい気持ちになった。

 次の日、栃木に行った。東京駅で先生から、「あす長崎に帰る時に学生の感想文をわたすから、それで結果が出ますよ」と言われ別れた。栃木の孫の名前は政矢だった。男の子で可愛い。まだよく目が見えないのに回りをきょろきょろして、元気の良い孫だった。これで私も一安心だ。日光へも行った。雪につつまれた日光は美しかった。

 いよいよ長崎へ帰る日が来た。語り部の結果がやたら気になっていたが、東京駅で先生とお会いした時「小峰さん、大成功ですよ」と言われ、百三十五通の感想文が手渡された。

 「先生、本当にあれで良かったんですね」

 「ええ、りっぱなものです」

 やっと肩の荷が降りたような気持ちだった。