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じいちゃん その足どんげんしたと    ―― ある被爆者の戦後史 ――


 人としての価値観

 一九九四年(平成六年)再び上京し、十月十七日、二回目の大学語り部の講演をすることになった。

 その前夜(十月十六日)、石田先生と浜谷先生、それに私は、東京のある居酒屋で飲んでいた。

 焼酎を飲みながら、私は石田先生に言った。

 「先生、私みたいな中学しか出ていない者が大学の学生さんに話をすることに、すごく抵抗があります」

 事実、そう思って言った。

 「小峰さん、それは間違っているよ」

 石田先生はそう言って、こんな話をしてくださった。

 「あれは、長崎へ行っている時、光石君がまだ元気なころだったな……」

 光石(信幸)君も原爆によって病気ばかりで、貧しく生活に困っていた。

 「被災協にいて昼になったので、光石君を誘って一階の食堂に行ったときのことだ。僕は彼に何かうまい物でも食べさせてやろうと思ったんだな。メニューを見せて、君、この中で一番うまそうな物たのんだらいいよ、と言ったんだよ。そしたらだな、彼は『こればお願いします』と言って指をさすんだよ。たしか四百五十円のカレーだったと思う。

 僕はもっとおいしそうな食事をさせてやりたくて、確かあの食堂で一番高い、八百五十円か九百円位だったと思うよ、それを指さして、彼にこれにしようかと言ったら、彼は何と言ったと思う。『先生、そんげんうまかもんば食べたら、癖になるけん』と言ったんだよ、癖になるからと。

 小峰さん、どう思う。政治家や学者、それに会社の社長、すべてが人間として価値があるとか偉いと思ってはいけないよ。小峰さんの話は、絶対に、小峰さんでなければ出来ないことなんだ」

 光石君も偉いと思う。それに気がつく先生も偉い人だと思い、良い話を聞けたのがうれしかった。

 前回もらった学生さんたちの百三十五通の感想文の中には、「自殺の誘惑に勝ち、力強く生き続けた小峰さんには、本当に尊敬の念を強くした」と書かれたものがかなりあった。そんな何枚もの感想文は、私の胸にグサッとこたえた。「周りでたくさん自殺された人がいたなかで、小峰さん自身が自殺を考えたことはなかったのですか」と質問した学生に、とっさに私は「考えたことはありませんでした」と答えてしまったのだ。

 一発の原爆が浦上の上空に投下され、何万の人々が殺された。大勢の人たちが傷つき苦しみ、多くの被爆者が死ぬことよりも生きていくことがどんなにつらいかを悟った。その結果、自殺者が多く出た。私もその中の一人だったが、運が良いのか悪いのか、生き残ってしまった。

 その時から五十二歳になるまで、「自殺未遂」に関しては沈黙してきた。しかし、学生さんたちが真剣に聞いてくれるのに、自分の心にうそがあってはいけないと思い直し、二度目の大学の語り部では、このことを話した。自分の声が震えた。

 終わって校庭に出ると持田さんが来ていた。二人の子供さんを連れて、二時間も電車に揺られて来てくださったのに、語り部は終わってしまっていた。

 その夜、三十数名の方々とお酒を飲んだ。石田先生も私と一緒に飲んでいらっしゃる。しかも愉快そうだ。学生たちの書いた百八十一通の文は私を感動させた。長崎へ帰って浜谷先生にこの感動した気持ちを伝えたく、一本の手紙を出した。

 浜谷先生、私はこのたびの上京で多くのことを学ぶことができました。

 石田先生が(言われた)人としての価値観、私ごときの話を本気で聞いてくださる学生さんの姿勢、話し終わった時の我に返ったような拍手、これはいったいなんなんだと思いました。そして多くの友、なんて自分は幸せなんだと思いました。前回の語り部では感想文も半分はお世辞ぐらいに思っていましたが、今回は素直な気持ちで読むことができ、学生さんの真面目さ、真剣さが文面から察せられました。平和の中で生活している学生さんたちが、過ちを繰り返すべきでない、使命、大切、無駄にしない、それは数限りなく書かれてありました。書かれてあった(だけ)ではなく、彼らが心に思っていてくれることに私は感動しました。そして心を動かされました。

 先生、「もう東京にはいかんばい」なんて失礼なこと言って済みません。先生や学生さんが私を必要でしたら、いつでも上京させていただきます。本当に多くのことを学ばせてもらってありがとう御座いました。またの会える日まで。

 浜谷先生には私の気持ちを伝えたが、やっぱり大学の講演は荷が重いのには変わりない。それでも講演中のあの教室のビーンと張りつめた雰囲気は快い感じがする。

 自分の話している声だけがやけに耳に残る。