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紙面から from Asahi Shimbun

【非核の祈り、世界へ 広島・原爆の日】 (2010年8月6日 夕刊)

 核なき世界への大きな一歩に――。広島への原爆投下から65年。原爆を落とした米国や核保有国の英仏の代表、潘基文(パンギムン)国連事務総長らが初めて訪れた「原爆の日」の式典を、被爆者らは希望をもって見つめた。私たちも、核廃絶のため、これからも訴え続ける。被爆者や遺族が誓った。

 ●共感の輪「ようやく」 仲伏幸子さん(70)
 原爆が投下された時刻の午前8時15分。「平和の鐘」が打ち鳴らされた。
 「核廃絶に向けて、やっと明かりが見えてきたよ」
 東京都の遺族代表として式典に参列した仲伏(なかぶし)幸子さん(70)=府中市=は、原爆に遭い、今はこの世にいない母と、友人の松村千恵子さんに心の中で語りかけた。
 あの時、母は広島市中心部で、空襲による延焼を防ぐために家屋を取り壊す建物疎開作業中。大やけどを負って2日後、31歳の若さで逝った。松村さんは母親の胎内で放射線を浴び、学生時代から反核運動に取り組んだが、40歳の時、乳がんに命を奪われた。
 5歳だった仲伏さんは爆心地から1・7キロの幼稚園で被爆した。幸いけがはなかった。半死半生で自宅までたどり着いた母に寄り添ったはずだが、亡くなる直前の母の顔は思い出せない。覚えているのは最後の朝、もんぺを着て出て行ったきれいな姿だ。
 仲伏さんは結婚し、3人の子が生まれた。「被爆者」を強く意識することはなかった。変わったのは、1970年代に暮らした大阪府高槻市で、「生まれながらの被爆者」という強い自覚を持った松村さんと出会ってからだ。
 中学の社会科教師として生徒に平和を説き、78年の第1回国連軍縮特別総会で米ニューヨークに渡って思いを訴えるなど、松村さんは平和運動に身をささげていた。6歳下の彼女に背中を押され、仲伏さんも被爆体験を語り始めた。
 だが病魔が松村さんを襲う。ベッドを見舞った時、松村さんは嘆いた。「核兵器廃絶がぜんぜん進まない今、逝くのが何としても悔しい」。86年5月、2児を残して松村さんは息を引き取った。
 24年後の今年5月、仲伏さんは核不拡散条約(NPT)再検討会議が開かれるニューヨークにいた。
教会や学校で、被爆体験を訴えた。
 「原爆を投下した国の人々に思いを伝えられるのか」。そんな心配は杞憂(きゆう)だった。教会では司教が「私たちは被爆者の体験を聞く義務がある」と言った。「核兵器をなくすため、僕たちは何をすればいいのか」と真剣な瞳で聞いてきた男子生徒もいた。確かな手ごたえを感じた。
 この日の式典で米英仏の代表が遺族、被爆者と席を並べた。「原爆投下から65年。ようやくここまで来た」。心強かった。けれども、核兵器廃絶の実現はまだ遠い。仲伏さんは母と友に改めて誓った。「そっちで会う時は『平和な世界になったよ』と報告したい。私、まだまだがんばるからね」

 ●オバマ氏来訪、夢見る 中村雄子さん(78)
 神奈川県原爆被災者の会事務局長の中村雄子さん(78)=平塚市=は、式典会場で潘基文・国連事務総長の英語のスピーチにじっと耳を傾けた。「事務総長がここで発言していること自体、前進だ」と歓迎した。
 女学校2年の時、広島郊外の工場で被爆した。爆心地から2・8キロ。吹き飛んだガラスで左腕に大けがをしたが、命に別条はなかった。ただ、広島市中心部で建物疎開作業をしていた1年生200人余りは、みな亡くなった。最寄り駅が同じで、おしゃべりしながら学校へ通った森脇瑤子さん(当時13)も含まれていた。
 夫の転勤などで被爆者運動から距離を一時置いていた中村さんが活動を再開するきっかけは、瑤子さんだった。
 1988年夏、瑤子さんら1年生が残した日記をもとにつくられたドキュメンタリー番組を偶然見た。
前日まで日記を丹念に付けていた丸顔のかわいい瑤子さん。なぜ命を絶たれねばならなかったのか。「彼女たちが身近にいたことを話さなければ」。今も県内を中心に証言を続ける。
 今年5月のNPT再検討会議で渡米。自らの体験や瑤子さんのことを話した。
 「米国をどう思う」と聞いてきた学生がいた。「一人ひとりの米国人はとてもフレンドリー。だから米国を憎む気持ちはない。だが原爆は許せない」と答えた。オバマ米大統領にもいつか広島に来てもらい、被爆者の思いに触れてほしいと願う。
 瑤子さんの名が刻まれた母校の慰霊碑では、ただ「苦しかったね」とだけ心の中で声をかけた。核廃絶に向けて前進していると感じるが、「そんなことを伝えても、亡くなった人たちが帰ってくるわけじゃない」。未来の子どもたちが、戦争で理不尽に命を絶たれぬよう守ること。それは生き延びた自分たちの責務だと思っている。

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