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紙面から from Asahi Shimbun

【聞こえぬ鐘に祈る平和 聴覚障害者で在日コリアン、語り始めた被爆体験 長崎原爆の日】 (2010年8月10日 朝刊)

 午前11時2分、原爆が投下された時刻に鳴らされる「長崎の鐘」は聞こえない。泉忠夫さん(72)=長崎市、写真=は聴覚障害者、在日コリアン、そして被爆者として生きてきた。今年も9日のこの時刻、平和祈念式典の会場にいた。
 「黙?(もくとう)します、ご起立下さい」。アナウンスが流れると、会場前列の聴覚障害者席にいた泉さんは手話通訳者に促されて立ち上がった。沈黙の中で、65年前に見たキノコ雲を思い出していた。
 1945年8月9日、長崎市新地町の自宅前で弟たちや叔父とビー玉遊びをしていると、突然、黄色い光に包まれた。爆心地から3・5キロ。雲がもくもく上がっていた。わけがわからないまま、叔父に手を引かれて防空壕(ごう)に逃げた。
 5人きょうだいの長男として韓国で生まれた。3歳の時、はしかにかかって高熱を出し、聴力を失った。44年に長崎市に移住し、長崎県立ろう?(あ)学校(現・県立ろう学校)に入学。被爆から8年がたった頃、友人から初めて原爆について教えられた。放射能は「毒」と手話で表現され、「おれの体にも毒が入っているのか」と心配になった。
 後に被爆者健康手帳の制度が始まると、父に「申請したい」と2度訴えたが、父は黙って手を左右に振るだけだった。実は、父は自分の手帳を申請した際に「子どもたちは茂木(爆心地から12キロ)にいて被爆していない」と書類に記していた。「在日として肩身の狭い思いをしている。このうえ被爆者として差別されることはあってはならない」という親心だった。

 2002年4月、原爆投下時に12キロ以内にいた人は手帳を受けられなくても無料の健康診断を受けられるようになった。きょうだいは受診者証を申請しようとしたが、泉さんは突っぱねた。「違う、おれたちは確かに被爆者なんだ」。思わず、手話の手の動きが速くなった。
 母とろう者の友人に証言をしてもらい、泉さんときょうだいは同年11月に手帳を取得した。被爆から57年がたっていた。

 9日の式典中、演台のそばに立つ手話通訳者の手に見入った。「おれにも子どもがいる。父にあんなことをさせた戦争は、もうなくなってほしい」と思う。
 聴覚障害者の被爆体験は全容が解明されていない。全国手話通訳問題研究会長崎支部は、ろう者の被爆体験の聞き書きを進めている。泉さんも2月から語り始めたばかりだ。

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