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紙面から from Asahi Shimbun

【2011年の夏】
原爆と原発:1 (2011年7月22日 朝刊)

原子力、二つの顔

 今年3月15日、イタリア・ナポリの大学での出来事だった。NGO「ピースボート」の船で寄港した広島と長崎の被爆者たちが被爆体験の証言を終えるや、現地の記者に囲まれた。
 「原爆の被害に遭った日本が、なぜあれほど原発を持っているのか」
 ヒロシマ・ナガサキを経験した日本のフクシマで原発事故が起きた。その意味を問われた。
 広島で被爆した平井昭三(しょうそう)(82)は言葉に詰まった。「誠に申し訳ないが、原発について勉強していないので十分に答えられない」。長崎の被爆者、深堀柱(あきら)(81)は「ノーコメント」を貫いた。ともに精いっぱいの答えだった。
 平井は言う。「国が『資源の乏しい日本には必要』と言うのをただ漠然と信じていた」。深堀は「安全神話を疑ったことなどなかった」と振り返る。
 悩みはひとり被爆者の問題ではない。
 原子力を戦争に使う核兵器は否定するが、「平和利用」としての原子力は受け入れる。こうした使い分けをしながら、日本社会は戦後歩んできた。
 「調節しながら破裂させたら、原子力が汽船も汽車も飛行機も走らすことができる。(中略)人間はどれほど幸福になるか」
 長崎で被爆した放射線科医師永井隆は、1949年に刊行しベストセラーになった「長崎の鐘」で原子力への夢を語っている。
 敗戦から復興へ。原子力という新しい科学技術に希望を重ね合わせた日本社会の原風景がそこにあった。=敬称略

平和利用、夢託した被爆者

 1951年。原爆で焦土と化した被爆地は復興への道をひた走っていた。
 広島市立中の2年生になったばかりの田辺雅章(まさあき)(73)は、学校で配られた原稿用紙にこうつづった。
 「原子力はおそろしい。悪いことに使えば、人間はほろびてしまう。でも、よいことに使えば使うほど、人類が幸福になり、平和がおとずれてくるだろう」
 文章は同年秋に出版された手記集「原爆の子」に収録された。寄せられた1千編超から、教育学者で被爆者でもあった広島大教授の故長田新(あらた)が選んだ。
 原爆は田辺からすべてを奪った。広島県産業奨励館(現・原爆ドーム)隣にあった実家はもちろん、母と弟も。陸軍将校だった父とは再会できたが、8月15日夕、静かに逝った。祖母と2人だけ、残された。
 学校の教科書で「原子力の平和利用」という言葉に目を奪われた記憶がある。原子力を発電に用いる計画があると書かれていた。
 家族を奪った原子力も平和目的なら人々に幸福をもたらすのではないか。怒りが胸にわだかまっていた当時の田辺には灯(ともしび)に思えた。
 「原爆の子」に収録された手記105編のうち4人の文章に原子力への期待が書かれている。編者の長田も序文にこう記した。  「広島こそ平和的条件における原子力時代の誕生地でなくてはならない」

 ●隠された放射線
 中学生の田辺たちが原子力への夢をつづった被爆から間もない時代。原子力の負の側面、放射線が体をむしばんでいたことは人々には隠されていた。
 原爆投下直後、日本政府は当時国際法で禁じられていた毒ガス以上の残虐兵器だと米国に抗議。広島に入った外国人記者たちは、外傷がない人々が次々と亡くなっている様子を欧米の新聞にリポートしていた。
 それを打ち消すかのように、原爆開発計画にかかわった米軍のファーレル准将が45年9月、東京のホテルで外国人記者らにこう言った。「広島、長崎で死ぬべき者はみな死んだ。現在、放射能のために苦しんでいる者は皆無だ」
 残留放射線の影響を否定するこの声明が後に、米国の公式見解となっていく。
 占領軍による放射線被害の隠蔽(いんぺい)の中、被爆地では原子力への夢が語られた。
 長崎の被爆医師永井隆は被爆者救護に尽くし、原爆症に苦しむ患者たちを目の当たりにしていた。その弟子で医師の浜里欣一郎(はまさときんいちろう)(87)は言う。
 「先生は科学者としての直感で、原子力は夢のエネルギーだと感じていた。原子力を医療用に使うことで原爆症の治療をしたかったのだろう」
 広島市立大広島平和研究所教授の田中利幸(62)は「原爆に家族らを殺され、痛めつけられたからこそ、被爆者は、原子力が自分たちを助けるものにもなるかもしれないと、希望を託したのではないか」と話す。
 原子力を希望の灯とみたのは被爆地だけではない。敗戦にうちひしがれた日本全体が夢を抱いた。
 新聞記事は原子力の多様な用途を紹介した。例えば、53年8月3日付の朝日新聞は「原爆記念日を間近(まぢ)かに、あえて原子力発電研究の現状を」と前置きし、ほぼ1ページをさいて米国の原子力を特集している。
 だが、これからほどなくして放射線の脅威は徐々に明らかになる。

 ●「死の灰」を浴び
 54年3月、ビキニ環礁で第五福竜丸が米国の水爆実験の「死の灰」を浴びたことがわかり、原水爆禁止を願う運動が広がった。被爆者たちも補償を求めて立ち上がった。
 56年8月10日。長崎市に被爆者ら約800人が集まり、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が結成された。大会宣言は「人類は私たちの犠牲と苦難をまたふたたび繰り返してはなりません」とうたった。
 その一方で、「原子力を決定的に人類の幸福と繁栄との方向に向(むか)わせるということこそが、私たちの生きる限りの唯一の願いであります」と続けた。
 当時、前橋市から駆け付けた須藤叔彦(としひこ)(82)は胸を躍らせながら宣言に耳を傾けたが、後段の記憶がない。「当時は補償を勝ち取ることへの期待しか頭になかった。原子力については知識もなかった」=敬称略
 (加戸靖史、渡辺洋介)

 ◆キーワード
 <広島・長崎への原爆投下> 太平洋戦争末期の1945年8月6日、米軍は広島市に世界初のウラン原爆「リトルボーイ」を投下した。爆心地から2キロ以内がほぼ全壊・全焼し、同年末までに14万人が死亡したとされる。米軍は同月9日、長崎市北部の浦上地区にプルトニウム原爆「ファットマン」を投下。約1万3千戸が全壊・全焼し、同年末までの死者は7万4千人と推定されている。今年3月末現在、国が発行する被爆者健康手帳を持つ人は21万9410人。

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