english

ここから本文エリア

紙面から from Asahi Shimbun

【2011年の夏】
原爆と原発:3 (2011年7月24日 朝刊)

(原爆と原発:3)「核絶対否定」孤高の叫び

 「父の考えをどこまでわかっていただろうか」。福島で原発事故が起き、広島市の森滝春子(72)は自問する日々を続ける。
 哲学者の父、市郎は原水爆禁止と被爆者運動の先頭に立った。「核と人類は共存できない」という「核絶対否定」の考えを残し、1994年に92歳で逝く。
 元中学事務職員の春子は反核運動を引き継いだ。米軍が劣化ウラン弾を使ったイラクを訪ね、講演では父の言葉を伝えてきた。
 しかし、と思う。自分は原発という核の問題にどこまで向き合ってきたか。

 ●平和利用の現実
 原爆で右目を失った市郎は戦後、原爆孤児の支援に取り組む。第五福竜丸事件後に起きた原水爆禁止運動に加わり、初の原水禁世界大会を広島で開催するよう提案。大会は55年、5千人を集めて成功した。運動の象徴的な存在と目された。
 後に「いまから思えば穴にはいりたいほど恥(はずか)しい空想を抱いていた」と述懐するが、当時は原子力の平和利用に希望を抱いた。その市郎の心を揺さぶったのが、豪州先住民の反核運動家、シェリル・ブハナンとの出会いだった。
 75年4月、フィジー。太平洋諸国の運動家らが集まった「非核太平洋会議」に参加した市郎は、ブハナンの訴えを聞いた。
 聖地と仰いできた土地がウラン鉱山として取り上げられたうえ、同胞たちは放射能汚染のある危険な採掘現場で働かされている――。
 「核の開発利用は構造的に差別・抑圧の上に成り立っている」。被爆者と被曝(ひばく)者の思いがつながった。
 同年8月5日。広島市での原水禁世界大会で、原水爆禁止日本国民会議(原水禁)代表委員として登壇した市郎は問いかけた。
 「原子力発電をこぞってつくり、プルトニウムと放射性廃棄物を出し続けるということになれば、どういうことになりましょうか」
 そして続けた。
 「人類は生きねばなりません。そのためには『核絶対否定』の道しか残されていないのであります」
 当時21歳だったブハナンは今も豪州で活動を続ける。「平和利用だろうが、ウラン採掘時から普通の人々が被害を受けていることを忘れてほしくない」

 ●しぼむ反対運動
 原水禁運動は分裂していた。心を痛めていた市郎は77年5月、共産党系の原水爆禁止日本協議会(日本原水協)の理事長と電撃的に会談し、14年ぶりの統一世界大会の開催を決めた。
 「核兵器絶対否定の道をともに歩む」との合意書を出したが、原水禁内部から「唐突だ」と猛烈な批判を招いた。元広島県原水禁事務局長の横原由紀夫(70)は「原発が次々とつくられていた時期だったのに、『核絶対否定』を深める論議が吹っ飛んでしまった」。原水禁の元幹部は「当時は冷戦まっただなか。核兵器以外の問題に関心が持てなかった」と明かす。
 統一世界大会は85年まで続くが、「核絶対否定」は最後まで受け入れられなかった。市郎は各地の反原発運動にかかわっていく。
 89年4月9日、青森県六ケ所村。核燃料サイクル施設建設への反対集会で、1万超の人々が砂浜を埋め尽くした。社会党県本部書記長だった今村修(おさみ)(69)は、車いすで来た87歳の市郎の言葉に胸を熱くした。
 「核と人類は共存できない。反原発の運動は人間が核を否定するか、核に人間が否定されるかの戦いだ」
 だが、六ケ所に吹いた反核燃の風もやがて弱まった。「現実に生活のかかっている人たちに、『核と人類は共存できない』を浸透させられなかった」。今村は悔やむ。
 原水禁は今月31日、原水爆禁止世界大会を福島で開く。「僕らの関心の中心は核兵器と戦争。原発への取り組みは弱かった」。長崎で被爆し、原水禁の現議長である川野浩一(71)は率直に認める。福島の事故が続く今こそ、市郎の言葉を世に問い直さねばと思う。
 春子は5月に肺がんで入院した。22年前に患った乳がんが転移した。治療が続き、思うように行動できない自分が歯がゆい。
 今月31日に広島市内の中学校である講演に何としてもいくつもりだ。「核がなければ本当に暮らせないのか、未来を担う子たちに問いかけ、一緒に考えたい」 =敬称略 (加戸靖史)

 ◆キーワード
 <原水爆禁止運動> 1954年に第五福竜丸の乗員が水爆実験の「死の灰」を浴びた事件をきっかけに、原水爆禁止を求める市民運動が起き、1年間で3千万人を超す署名が集まる。翌年8月には第1回原水爆禁止世界大会が広島市で開かれ、翌月、日本原水協が結成された。ただ、60年代には、社会主義国の核実験の評価をめぐり共産党系と旧社会党系が対立。63年の世界大会で分裂は決定的となり、社会党系の原水禁が65年に結成された。

《2011年の夏》 記事一覧