english

ここから本文エリア

紙面から from Asahi Shimbun

【2011年の夏】
原爆と原発:4 (2011年7月25日 朝刊)

(原爆と原発:4)ヒロシマ開催、米の執着

 1954年3月16日。日本の南東4千キロ、ビキニ環礁で米国が行った水爆実験で、マグロ漁中だった静岡県の第五福竜丸が被曝(ひばく)したことが明らかになった。
 事件は広島、長崎に続く「3度目の原爆被害」として社会に衝撃を与えた。翌年夏までに3200万人分の核兵器反対の署名が集まり、いまに続く原水爆禁止運動のうねりを生んだ。
 衝撃を受けたのは日本だけではなかった。発覚から1週間後のことだ。
 同年3月23日。当時の米国防長官の補佐官から、国家安全保障会議あてに覚書が送られた。
 「日本で原子力の非軍事利用を進めるべきだ。原子炉の建設はどうだろうか」
 当時、最先端技術の原子炉は米国が誇る平和利用の代表選手。東京工業大名誉教授の山崎正勝によると、被爆国で予想されるビキニ事件への反発を抑え込もうとする狙いがあった。公文書で確認できる米政府内での日本への初めての「原子炉導入論」という。
 アイゼンハワー大統領の平和利用演説から3カ月。原子炉導入論は危機感の裏返しでもあった。
 米政府は反米・反核運動の広がりを警戒した。
 「共産主義者は長崎と広島をプロパガンダの主要ターゲットにした。現状も彼らが同じ種をまく良い機会になっている」(54年3月22日付、国防長官補佐官メモ)

 ●PRで世論懐柔
 いかに日本の世論を懐柔するのか――。ビキニ事件を機に一つの方針が示された。
 同年4月27日午後、ワシントンで開かれた国家安全保障会議の作業部会。原子力の平和利用博覧会の開催を通じたPR活動が対策の柱に位置づけられた。
 「平和利用の促進が最も難しいエリア」。55年6月、日本駐在の広報外交担当職員がワシントンあてに送った広島についてのメモが、米国立公文書館に残されている。ヒロシマは日本での平和利用博の成否のカギを握る街でもあった。
 その土地で博覧会開催の使命を担ったのが、広島アメリカ文化センター館長、ファズル・フツイだった。
 52年に一緒に来日し、地元の小学校に通っていた長女ファリダ(64)はいま、ロサンゼルスで暮らす。
 「父は公邸にたびたび100人近い人々を招き、スクリーンに海外の平和利用博の映像を映して、開催の意義を説いていました」
 フツイは、広島市、広島県、広島大学、地元紙が主催者に名を連ねる「オール広島」での開催にこぎ着けた。会場は、被爆の実相を伝える展示品が置かれた広島平和記念資料館。「展示品を動かすな」「また広島を放射能にさらすのか」と反対運動が起きた。
 朝日新聞が入手したフツイの手記に反対派を一堂に集め、説得した様子が書かれている。「それ以上、反対意見は出なかった」
 56年5月27日に開幕した博覧会のチケット売り場には列ができ、危険物質をロボットアームで遠隔操作する「マジックハンド」の実演には人だかりができた。爆心地から1・7キロの自宅で被爆した村上啓子(74)は当時19歳。「危なくないの」と尋ねると、説明員は笑顔で答えたという。
 「放射線には様々な種類があります。悪いものは爆弾に使われるけど、良いものは人間に役立ちます」

 ●12万人超が来場
 閉幕日の翌6月18日、東京の米国大使館からワシントンに報告があがった。「広島博覧会は3週間で12万人超を集め、成功裏に終わった」
 博覧会は55年11月から1年10カ月で全国11都市を回り、来場者は計270万人にのぼった。米国は観客の入場前後の意見の変化まで調べていた。大阪会場を訪れた米原子力委員会の幹部は、同委員会への報告書にこう記した。
 「日本人の原子力エネルギーへの態度を目覚ましく変えた」「大統領の平和利用構想にこれほど好意的な国が他にあるだろうか」
 ほかに博覧会の縮小版が、神戸や松山のほか四国や東北の農村部でも開かれた。青森・五所川原では40万人を集めたという記録が残る。
 茨城県東海村に米国製の実験炉が運び込まれ、日本初の「原子の火」がともったのは57年8月。日本での博覧会が終わるのとほぼ同時だった。=敬称略 (金成隆一)

 ◆キーワード
 <アトムズ・フォー・ピース(原子力の平和利用)> アイゼンハワー米大統領が1953年12月8日に国連総会で行った演説の題名。米国による核技術の独占を過去のものと認め、米国が農業や医療、発電など原子力の平和的な利用を国際的に推進する姿勢を示した。また、国家からの核分裂物質の供出を受ける組織の必要性を訴え、国際原子力機関(IAEA)設立につながった。大統領は「原爆(投下)という暗い背景を持つ米国としては、力の誇示のみではなく、平和への願望と期待をも示したいと望む」と呼びかけた。

《2011年の夏》 記事一覧