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紙面から from Asahi Shimbun

【2011年の夏】
(核の時代を生きて:1)66年目、またも放射能 「原発と原爆は違う」言い聞かせ… (2011年7月30日 朝刊)

 北へと逃げる車中で広島で被爆した記憶がよみがえった。また、放射能に苦しめられるのだろうか。
 自宅から約17キロ先の福島第一原発で3月12日、水素爆発が起きた。20キロ圏外に逃げるように言われ、福島県南相馬市の遠藤昌弘さん(85)は妻と娘の3人で、親類の車に飛び乗った。
 手元にあるのは自宅の鍵、財布、健康保険証と自身の被爆者健康手帳のみ。着の身着のままだった。
 あてのないまま10キロ北の体育館へ。3泊した後、福島市の親類宅へ身を寄せ、1週間後には約250キロ離れた神奈川県相模原市の知人宅にたどりついた。
 《目に見えぬものに逐(お)われて春寒し》

    *

 1945年夏。2等兵の遠藤さんは体調を崩し、広島市にある陸軍病院の三滝分院に入院していた。
 8月6日午前8時15分、爆心地から2キロ。爆風は仮眠していた遠藤さんを吹き飛ばし、壁にたたきつけた。外に出ると、黒く、肌がずるむけになった女性たちが「助けて」とうめきながら倒れていく。死んだお母さんの乳房に吸いついた赤ちゃんが、泣いている。
 「無残すぎて、もう広島は思い出したくない」
 避難先の小学校の講堂で敗戦を知った。8月も終わろうとするころ、髪が抜け下痢が止まらなくなった。

    *

 戦後、大阪の設計事務所で働いた遠藤さんは50年、父の死で郷里の旧小高町(現在の南相馬市)に戻った。29歳で町役場に就職し、土木課に配属された。
 原爆のことは、家族にも多くを語らなかった。あのとき、ぼと、ぼとっと音を立てて、黒い雨粒が落ちてきた。服も黒く染まってゆく。雨には強い放射能が含まれていた。体中のできものが化膿(かのう)して治らないのはそのせいだろうか。いつ原爆症で死ぬのか。不安だった。心境は句に寄せた。
 《夏草や生きて原爆受洗の徒》
 日本経済は驚く速さで成長を始めていた。鉄鋼や造船、自動車などの重工業は、働き手として農村から若者を引っ張っていった。
 小高の人々の暮らしを支えた稲作だけでは食えない時代。出稼ぎも多い。
 福島第一原発1号機が71年に稼働を始めた。それを追いかけるように73年、町は浪江・小高原子力発電所の誘致を決めた。補助金で町が豊かになる。雇用も生まれる。色めきたった。
 遠藤さんは、原発建設に必要な石を運び出す道路をつくるため、地権者との用地交渉にあたった。
 町長を先頭に、説得した。「原発は平和産業、雇用をつくる地場産業です」と頭を下げた。
 仕事なんだ――。放射線が体をむしばむかもしれない不安を打ち消すように、反対する人には言った。
 「私は被爆者だから放射能の怖さをよく知っています。原発と原爆は違います。安全なのです」
 道路は完成したが、原発は未着工のまま、遠藤さんは定年。再就職先の建設会社を退いた後は、妻幸子さん(82)と茶道を楽しみ、俳句を詠む日々だった。
 原発事故は、そんな日常を一瞬にして奪った。

    *

 仮住まいは4カ月を超えた。つかの間の安らぎはあるものの、この先どうなるのか先行きが見えない。
 小高の町のことを考えない日はない。原発は「平和産業」だと信じてきた。悔しい。妻と過ごしてきた自宅は、警戒区域にある。どうなっているのだろう。
 《放射能の町離れ来てみどり立つ》
 今秋、あの日から一度も足が向かなかった広島を家族で訪れてみたい。 (高木智子)

     ◇

 ヒロシマ・ナガサキから始まった「核の時代」はフクシマにいたる。核は人生に何をもたらしたのか。被害者たちの姿を描く。

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