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紙面から from Asahi Shimbun

【2011年の夏】
(核の時代を生きて:2)黒い雪の恐怖、抱えて ビキニ被害者、漁船仲間の訃報相次ぐ (2011年7月31日 朝刊)

 1954年3月。
 高知の室戸船籍「第二幸成丸」は、南太平洋ビキニ環礁の周辺海域にいた。
 甲板員、桑野浩(ゆたか)さん(78)はデッキに出た。空からパラパラと降ってくる。黒い雪のようだ。灰にも見える。
 「なんだ?」
 黒いものはデッキにうっすら積もり、頭や顔、首筋にもつく。汗とともに手でぬぐう。2、3日は降り続いた記憶がある。
 好漁場で知られた周辺海域には当時、数百の日本の漁船が行き来していた。
 ビキニ環礁では米国による水爆実験が行われていた。乗組員は知るはずもなかった。

    *

 突然、桑野さんの体に変調が表れたのは、十数年が過ぎた30代初め。白血球の数が異常を示した。医師に聞いても、原因はわからないというばかり。
 米国、南米、中東、アフリカ、旧ソ連。小麦や車を積んだ商船で、海外を回っていた。母一人の手で育てられ、マグロ船に乗って稼いだ学費で、国の海技専門学院を卒業。航海士となる夢を実現していた。
 不思議なことが続く。40代半ばごろから、世話になった幸成丸の乗組員の訃報(ふほう)を次々、耳にした。
 知っているだけで、79年に54歳の機関員が心臓まひ、85年に68歳の漁労長が大腸がんで逝く。さらに別の54歳の機関員が肺がん、59歳の機関員が血液がん……。海外から田舎へ戻るたび、仲間の死を知る。
 忘れていたビキニの記憶がよみがえった。
 「あの黒い雪が関係している。きっと、そうだ」

    *

 桑野さんを乗せた幸成丸が東京・築地に戻る1カ月前、米国の水爆実験で「死の灰」を浴びた船がいた。第五福竜丸。乗組員23人は下痢や吐き気、脱毛、やけどを訴えた。急性放射能症と診断され、全員が入院。騒ぎになっていた。
 桑野さんたちも集められ、船や魚が放射能に汚染されていないか検査を受けた。水揚げ30トンのうち、5分の1が廃棄された。船は被曝(ひばく)していた。
 「体はなんともない。大丈夫だ」。福竜丸の乗組員とは違う、と思ってきた。
 だが、立て続けに仲間が死んでいく。
 次は、おれだ。
 福竜丸は有名だが、だれも高知の漁船のことは知らない。「自分もビキニの被害者だって言いたくても、振り向いてくれる人なんていなかった」
 寄港先でアルコールを買っては、船の自室で飲んだ。1日にウイスキーを1瓶あけるのは当たり前。酒量が増えていった。
 恐怖が心と体をぼろぼろにした。55歳で船を下りた。酒が手放せない。幻覚と幻聴。妻に当たり散らした。耐えかねた妻が、アルコール依存症が専門の病院に駆け込んだ。
 5カ月半、入院した。

    *

 酒を断って20年、幸成丸の仲間で連絡が取れるのは2人になった。5年前からビキニの体験の証言を始めた。原発事故が日本で起き、海を汚している。
 「人間が扱うものには過ちもあるし、天災もある。だから核は放棄すべきだ」。あの海で見たこと、それから起きたことを伝えていきたい。 (高木智子)

 ◆キーワード
 <ビキニ事件>
 1954年3月〜5月、米国は南太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁などで6回にわたり水爆実験を行った。1回目の3月1日の爆発で、マグロ船「第五福竜丸」が「死の灰」(放射性降下物)をあび、全乗組員23人が被曝。半年後、無線長の久保山愛吉さんが急性放射能症で死去した。事件で原水爆禁止運動のうねりが世界に広がった。
 当時、多くの漁船や貨物船、現地住民、米兵らが被曝したが、55年の日米両政府による政治決着で、第五福竜丸以外の被害実態は調査されなかった。

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